突然だけど小規模のミーティングをしていると、何が議題なのかわからなくなることってありませんか?

 

1つの事について話していたのに最終的には6つぐらいの問題点だけが残っている。

 

最終6つの問題点に話をしだすが解決できずに次回に持ち込まれる。

 

結局何の為のミーティングだったんだろう。

 

 

僕が経験したことだ。

 

ミーティングというと会社をイメージするが、その他でもミーティングの機会はある。

幾つかの場面で、今回はある自治体のある団体での話を書こうと思う。

 

 

トラブルが発生し招集がかかる。

 

団体のトップがトラブルの詳細をメンバーに話してスタート。

トラブルをどうやって解決するかというミーティングが始まる。

1時間もすれば毎回同じ結末になる。

同じ結末とは

 

『トラブルの相手を批判する』

 

という最低と言われる結果になっている。

 

僕は言う。

 

『何について話すの?』

 

返ってくる答えはいつも同じ

『相手をどうして押さえ込むか』

 

僕は疑問が生じる。(ミーティングの最初から疑問だらけですがねw)

 

『このトラブルの根本原因は何?』

 

と尋ねる。

 

返答は

『相手が悪い』

 

この言葉が仮に正解だとすれば、結果は相手を押さえ込む必要なんてない。放置でいいわけである。放置をするのであればミーティングなんて必要ない。

 

だからあえて僕は言う。

 

『放置してればいいやん』

『これ以上話し合う必要ないね』

 

そうすると、

 

『そういう簡単な話ではない』

 

と返ってくる。

 

がとても簡単な話しで、根本的な原因が間違っているから難しいだけである。

 

トラブルの原因は、団体のトップの判断ミスであったり、プライドが問題であることが多い。

自分の責任を他人にかぶせようとするから複雑になる。

本人は自分の責任を認めていると口では言うけど、掘り下げると認めてはいない。

 

自分の責任を認めると周囲から攻撃されることが恐怖となって隠す。

隠すからこそ単純な問題が複雑化される。

周囲も責め立てるから複雑になる。

 

ミーティングは上手くいかなかったことを責めるのが目的ではない。

根本原因を炙りでして根本原因を是正して恒久的措置をとるのが目的である。

 

自分達が悪いという部分を隠せば隠すほど物事は複雑化される。

1つの原因を解決する為に、1つの原因から目をそらさずに話し合いをすすめる。

脱線すれば元に戻す。

ごく単純なこと。

 

元に戻っても多数派の意見を元にすると、これも脱線する方向になる。

なぜかというと、多数派の意見というのは意見がないに等しいからだ。

 

『その意見いいやん』

 

この一言が一番怖い。

 

自分の意見がないから人の意見に便乗する。それが多数派になってしまえば、いい方向には向かない。

少数派の意見に耳を傾けてこそ解決につながる。

そもそも多数派の意見がトラブルの解決の糸口になるのであれば、最初からトラブルは存在しないからである。

 

少数派の意見。

 

自分が理解できなければ聞きたくもない意見かも知れない。

しかし、その意見を理解する為にとことん話をすることにこそミーティングという時間に意味が出てくる。

それが面倒だと思うから余計に複雑になる。

 

面倒と思うことこそ一番の近道になる。

電車やバス、お店や道。席を譲ってもらったり道を譲ってもらう。時には順番を譲ってもらう。

 

こういった場面で出てくる言葉は

 

『ありがとう』それとも『すみません』

 

どちらでしょうか。

 

 

最近僕はよく思う。

 

こういった場面でとっさに出てくる言葉が後者の『すみません』という言葉だ。

感謝の気持ちを伝えるには『ありがとう』の言葉の方が伝わる。

なのに『すみません』という言葉のほうを選んでしまっている。

 

『すみません』という言葉にも感謝が含まれているといえば含まれている。

しかし、相手に伝えるのならば言葉足らずである。

『すみません。ありがとうございます。』

と『ありがとう』の言葉を含めるほうがいい。

 

僕は思う。

 

『すみません』

これは謝罪の時に使う言葉だ。

 

『ありがとう』これは感謝を伝える言葉だ。

 

『すみません』、自分と相手との間に差が生じていると考える。

それに感謝を伝えるのにとても後ろ向きな言葉という風にも捉えられる。

 

 

なぜこんなどうでもいいことが気になりだしたのだろう。

 

感謝のはずなのになぜ謝るのか。

 

考えるうちに、自分自信がすみませんと言ってもらいたいのだということに気づく。

 

地位が上であるとか、優れている。

僕は人に上も下もないと考えているのだけれど、心の奥底では相手を見下していたりするのだと気付いた。

 

どうでもいい部分。当たり前と考えている部分。

当たり前は空気と同じで目には見えない。正確には見ようとしていない。

この見ようとしていない部分に自分を縛り付けるロープが存在する。このロープの存在を誤魔化す為、見ないようにする為、ありとあらゆる手段でフィルターをかけ目を他にそらす。

 

だからどうでもいいことを気になる。

 

人生において自分の社長は自分である。

だからこそ自分という会社には目を光らして監視しないと。

自分の弱い部分てなんだろう。
 
自分を大きく見せるところ。
周囲とは違うと思わせたいところ。
 
どっちでも同じということに気づく。
 
自分自信が小さいと思われることが悪いこと?
いや、心の奥に自分は周囲より優れている。尊敬されている。そうでないと自分は恥ずかしい。
とてもとても奥の部分に潜んでいる感情。
 
形になっていないモヤモヤな感情。
 
それを隠すために偽りの感情が表に出す。
 
偽りの感情に振り回されているからストレスが溜まりしんどくなる。
 
自分と対話するというのは本当に難しいことだと感じる。
今までの経験と知識から自分の常識というルールを作り上げる。
自分と違う常識は排除しようとする。
 
『こうしないといけない』
 
これは常識ではない。
 
自分の中のルール。
 
常識はルールではない。
 
自分自信を隠すための言い訳でしかない。
どうやって自分と向き合っていくか。
 
僕もよく考えていこう。
 気分が落ち込んでやらないといけないことになかなか取りかかれない。
 
なぜ?
 
なぜ気分にムラがあるのだろうか。
 
体調などが原因なのか???
 
それとも周囲が悪いのか?
 
どれも違うかった。
 
 
自分の思い描いている理想とかけ離れていたり、 うまくいかないことが目の前にあったりすると気分が下がってしまう。
 
自分が自分を苦しめているんだよな〜。
 
それなら理想を描くのをやめてみる。
うまくいかないというのはなぜなのかを考えてみる。
 
自分自身で上手くいっていないと決めつけているだけということもある。
 
結局は自分にないものを必死に追いかけているだけだから逃げられる。逃げられるから落胆する。
 
こんなはずじゃなかったのに。。。
 
理想とは自らを鎖で巻いているようなもの。
鎖に締め付けられるからストレスを感じる。
この鎖から解放できるのは自分自身しか存在しない。
 
解放してあげてできないことも楽しめ。
そして昨日よりも今日。少しの成長もしっかりと感じ幸福に思う。
 
何かを考える。気分が落ち込む。当たり前のように感じていることだけど当たり前ではない。
 
だから、出来ないこともできることも全てが自分であって理想とかけ離れているからといって落胆する必要はない。
 
当たり前と思って感じていないことを一つでも感じ取れるようになり幸福と味わおう。
常識というのは『こうしなければならない』という縛りではない。
 
こう言わなければ。。。
 
感じたことを言えばいい。
 
間違いはない。
 
感じかたは人それぞれ。
 
面白くないものに面白いと同調する必要はない。
 
本音を隠して不満を蓄積させるなら本当のことを言えばいいだけである。
 
イエスマンからの脱却。
 
意外と窮屈にならないよ。
 
イエスマンの方が窮屈だよ。
 
自分をごまかさずに。
 
不安は自分でつくりあげているだけ。
 
急な方向転換はない。
 
けれど、気付いた時には方向は変わっている。
 
自分を信じて進もう。