所詮日本人

「大竹さんは、なぜフランス哲学を選んだのですか?」
と尋ねられる。僕にとっては……
「大竹さんには、なぜフランス人の恋人がいたのですか?」
と同類の質問だ。

 

 

ドイツでもイギリスでもなく、なぜフランス?という意味でもあろう。日本はどうなの?という意味でもあろう。

『超訳モンテーニュ』にも書いているが、フランスに引き込まれたきっかけは、ほかならぬモンテーニュ師である。とはいえ、実際には中国思想(論語と孟子)の方が早く出会っている。大学で諸子百家を読み漁った時期もあるし、ダンヌンツィオにはまった時期もある。もちろん、論文の主題としたニーチェはドイツ人だ。
それでも、フランスから離れなれなかった。

 

 

フランス人は、「自分が日本人である」ことを常に省みさせてくれる有難い存在だ。もちろん、僕にとってという条件付き。
日本人との付き合いで、「自分が日本人である」ことを意識することは、まず、ない。どちらかと言えば、「名古屋人」であることを意識する。食事や方言など…。人種というより文化だ。

「日本人である」
この視座は、僕が子供たちに求めるところである。

 


「ローカル即グローバル」が可能になり、これが要求される時代になった。ただのグローバルは役に立たない。やくにたつのは、「グローバル即日本」人であり、どちらかというと「日本>グローバル」人である。

 

そんなことを教えてくれたのが、フランス人たちだ。
モンテーニュやパスカルらモラリスト、カミュやサルトルの実存の思想家たち。
そして、恋人たち。
僕が禅に回帰していったのは、偏に彼らの「お陰」である。

 

 

「詮ずる所」、とはよく言ったもので、「所詮**」とは、「あれこれ体験してぐるっと回って**」という意味になる。「もう何をしても無駄」という消極的姿勢ではなく、「で、そこからどうする?」という根本的姿勢の発現となるはず。

何やら忙殺の日々が続き、要請されている「哲学的思想」と「カミュの思想」の整理が遅々として進まない……。
そんな中、不意に吹き出た見解。
少しずつ娘たちの世代へのメッセージを残していこうと思い至った次第。要請されている課題については、今日も進められない予感がする。

 

 

 

『ペスト』を読み解き、ポスト・コロナの人間を学び合う会に参加してみませんか?

 

 


未読の方も、熟読済みの方も、対等です。

性別とか、肩書きとか、不要です。

会場は、広尾のお寺、香林院さん。

住職の坐禅指導もあります。l

火曜の夕方、仕事終わりに心と頭をリラックス!

 

 

港区三田と鎌倉で、「てらてつ(お寺で哲学)」開いています。
「大竹稽」ホームページから、お問い合せくださいね。
https://kei-ohtake.com/




 

どなたも、気楽に、遊び心で学び合いましょう。

 

 

お申し込みは、大竹稽ホームページまで。