私にとって、誇りとは?

それは「気づいたら既にここに居た」という自覚から始まる。

「なぜ、私はここに居るのか?」

この問いには答えはないが、この問いに応えることはできる。いや、応え続けることができる。

 

 

 

特攻隊の演劇『恥と誇り』を知った。

特攻して死した先輩たちへの思いとこれからの日本への憂い。それが自らの特攻を選ばせた。兵士たちの中には、新婚の将校がいた。そして彼と共に同じ飛行機に乗り、共に特攻することを選んだ新妻。

一方で、兵士たちの死を、保身のための算盤で勘定する幕僚たち。

彼らの誇りとはなんだったのか。涙と共に考えされられる。

 

誇りと恥は表裏一体。目に見えぬ一線を超えると、誇りは恥に堕する。

 

高慢、不遜、無恥。そんな肥大したブヨブヨの誇りは御免だ。

そんなあからさまな誇りは恥ずかしい。

他人に誇るのではなく、自らに誇れるようにしよう。誇りとは、その「領分」を超えてはならないのだ。

「誇り」は外の権威によって背負わされるものではない。また、外の権威に披瀝するものでもない。

「己の誇り」同士が、たとえば「日本の誇り」「日本人の誇り」「男の誇り」などが共鳴することはあっても、権威となって恥をさらしてはならない。

 

押し付けられた「存在」はわたしの「実存」にはならないのだから……。

 

「わたしはなぜここに居るのか」に応え続ける。それが私の誇りだ。