練馬区、秋盛りの桂徳院さんへ参りました!
ところで…みなさんは、
『法句経』をご存知でしょうか?
経典界の論語、と呼ばれるほど、昔から僧侶や信徒に親しまれていました。
僕は禅僧たちを通じて初めて知り、読みました。
もちろん、パーリ原文なんて読みたくても読めない(ノー!読みたくもない)ので日本語訳で読んでいます。
友松先生の翻訳をお勧めします。知己の和尚様たちもよくこれをお勧めされます。
さて、恨み…
『法句経』の三番にすでに「恨み」がでてきます。
三番、といってもそれだけじゃ不親切ですよね!長さとか内容とか明らかにしなきゃ…(ホイホイっと)
「彼、われをののしり 彼、われをうちたり 彼、われをうちまかし 彼、われをうばえり」 かくのごとく こころ執する人々に うらみはついに 熄むことなし
三番、これだけです!
其々これと同じくらいの長さで四百二十三番まであります。
恨み…
このブログでも以前に扱っているテーマですが、なんといっても、仏の御手はここに差し伸べられます。
だって…一人じゃどうしようもないじゃん!ってのが「恨み」なんじゃないかしら?
1951年、セイロン(現スリランカ)代表のジャヤワルダナはサンフランシスコ講和会議で演説をした。
「憎しみは憎しみによって止むことはない。ただ慈悲によって止む」
憎しみの相手は…?
日本だ。
多くの国が敗戦国にハイエナのように群がる中、スリランカはこうして仏教国の矜持を示し、日本への賠償金請求権を放棄した。
さて、こんなところから始まった山本文渓和尚のお話。
和尚は御年75です。
「ピンポン」、と訪いましたら、タッタッタと足音が聞こえました。
和尚、お元気ですね〜
最近、「仏教のはなし」ってのをやり始めてね〜案内を出したら、一人の弁護士さんが『臨済録』でわからないところがあるんです、なんて質問してきてね。そんな人たちにも応えられるようにしていたら、今度はちょっと難しいって言われてしまったね〜
いやはや、お若い(なんて言い草、失礼ですよね、反省)。
試行錯誤ウエルカムのようです。
さて、その「仏教のおはなし」の会にはいろいろな方が参加されているようですが、ある三十代の女性から相談を受けたそうです。
「自分の中にある恨みをなんとかしたい。どうしたらいいのでしょう?」
「なんとかしたい」
よくわかります。でもなんともならない。そんな状況を彼女は自己矛盾と感じられたようです。
さて、『法句経』の再登場、五番です。
まこと、怨みこころは いかなるすべをもつとも 怨みを懐くその日まで ひとの世にはやみがたし うらみなさによりてのみ うらみはついに消ゆるべし こはかわらざる真理なり
「うらみなさによりてのみ うらみはついに消える」
まさに真の理でしょう。
つまり、「うらみをなくそう!」としている限り、うらみは消えない。
むしろ、「うらみをなくそう!」とする頑固な思いがうらみを増幅させたり、先の女性のような自己矛盾に陥らせたりします。
じゃ、「うらみをなくそう!」ともしない心にはどうすればなれるの!?!
問題はそこなんですよね。
実は、『法句経』には書かれていません。お釈迦様もこれについては言及されていないそうです。
結局は、自分で解決するしかない…
和尚もそう仰っています。
この点、仏教は不親切ですよね?
この不親切が我慢の限界となって改宗した真面目な元仏教徒が、知り合いにいます。
でもさ…
そこで答えをだすほうが、「不親切」だと僕は思います。
親切が、いつでもどこでも手を貸すことだと思ったら大間違い、じゃないですか?
見守る、という親切もあるでしょう?
そして、自らの力で立ち上がるのを信じて待つ!
これが真の親切ではないですか?
恨み怨み憾み。僕たちの心の最もダークな部分でしょう。
「自分の矛盾をなんとかしたい!」
この思いがあったらきっと「うらみなさによりてのみ うらみはついに消える」は達成できるのではないでしょうか?
そのために、極言すればそのためだけに、お寺は門戸を開いていると思いますよ。