昨晩、


下の娘が使ったコップを


床に落として片付けずにいたので、


拾って片付けるよう伝えました。





下の娘は聞こえないフリをして、


その場を立ち去ろうと。




もう一度、


拾って片付けるよう促しましたが


またまた聞こえないフリ。




口調キツめで


もう一度注意すると、



娘は


その場で


しゃがんで泣きはじめました。







なんとか


言い聞かせようと


してしまいそうでしたが、


今回は


あえて


アプローチを


変えてみました。






泣いている娘に


「パパのお話を聞いてほしいんだけど、聞ける?」


と聞いてみました。


泣きながら


頭を横にふる娘


(話は聞けない。聞きたくない。)





「それじゃあ 


お話を聞けるようになるまで


待ってるね。


聞けるよってなったら


教えてくれる?」



縦に首を振る娘。







しばらくその場で


泣き続けていました。






私はただそこにいて、


娘が教えてくれるタイミングまで


泣いている娘の側で座って


待っていました。






数分後。




「パパ」


と泣きじゃくりながら


娘が


ギュッとハグをしてきました。





少ししてから、


「お話聞けそう?」


と娘に聞いたら


「うん」


と返事をしてくれました。





娘を待つ間、


私も冷静さを取り戻せたので、


改めて仕切り直して


床に落としたコップの片付けについて


娘と話をしました。




娘は


「お片づけするね」


と理解したようでした。






娘が泣き止むのを


側で待ってみて感じたのは、




子どもが泣くことって


自分の気持ちを味わい尽くしているんだ


なぁと


思いました。




泣ける場と時間を


があることで、


自分で自分の心に向き合いながら


感情を味わうことで


昇華して


折り合いをつけているんだって。




もしかしたら


子ども自身が


自分の感情と向き合える


体験は、


自分を大切にする時間と場


になっているのかもしれない。






子どもが感情を味わうことを


大切にしてあげることは、


親として、


私のできる


愛情表現の一つなのかもしれないなと


思いました。





一方で、


どこかで


子どもを泣かせていると


私が(勝手な思い込みで)責められているように


感じて、


(私は悪くないと)なんとか子どもを泣き止ませようとしている。



そんな私の一面があるなぁと


気付くことができました。



※先日、娘2人と新潟市内の水族館へ。

 朝の清掃でキレイになったプールに誰から飛び込むかお互いに探りを入れあっているペンギンの皆さん。