和を以って貴しと為す。

 

上は、東京都知事選での、ある候補者を眺めて思い浮かんだ言葉。この言葉は、聖徳太子十七条憲法の一番最初に書かれている。由来は、紀元前5世紀頃の中国で儒教を確立した孔子に遡る。孔子の没後に弟子たちが孔子との対話を編纂した『論語』に、「礼は之和を用って貴しと為す」との記載がある。儒教で言うところの「和」とは、秩序を重んじる『礼』において、相手を尊重する心の重要性を説くキーワードだ。これがないルールなど何の意味も無いと、歴史上の賢人が後世に残した概念と捉えることが出来るだろう。

 

以下、ウィキペディアより抜粋引用

 

十七条憲法とは、推古天皇12年(西暦604年)5月6日に皇太子である聖徳太子が制定した全17条からなる日本最初の成文法。『日本書紀』には、同年4月3日(旧暦)の項に「皇太子親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条憲法を作りたもう」と、太子自らが起草したことが記述されている。(聖徳太子31歳の時。)

 

夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。

一曰、以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。以是、或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦、諧於論事、則事理自通。何事不成。

 

[現代語訳]

おたがいの心が和らいで協力することが貴いのであって、むやみに反抗することのないようにせよ。それが根本的態度でなければならぬ。ところが人にはそれぞれ党派心があり、大局をみとおしているものは少ない。だから主君や父に従わず、あるいは近隣の人びとと争いを起こすようになる。しかしながら、人びとが上も下も和らぎ睦まじく話し合いができるならば、ことがらは道理にかない、何ごとも成しとげられないことはない。

 

引用終わり。

 

比較的若くして地方の市長となり、たいした実績も無いまま都知事選に出馬している候補者がいる。この候補者はネットで話題となり、都知事選でも数十万票を取りそうなバズりをしている。その手法は「和」の心とまったく反対だ。居眠りしただけの年寄りを、まるで国賊かのように仕立て上げ、弁明を満足に聞く事もなく強い言葉で断罪し、更にはその様子をネットで全国に晒し上げたのだ。晒し上げた理由は、市民のためと言うより自分の売名目的の為である。その事は、戦略的にやっていると本人が明言しているところから透けて見える。対立の構図をわざわざ作り出すその手法は、ストローマン論法で成り立っており、下劣極まりないとさえ言える。相手が問題にしていない論点をでっち上げ、それに対して攻撃を加える。無能ゆえ無意識的に行っているのかもしれないが、もし意識的に行っているのであれば悪質さの度合いは前者の比ではない。

 

この手法を頻繁に使い、かなり悪質と思える事例がある。某モーニングショーの元局員で自称ジャーナリストのコメンテーターが真っ先に浮かぶ。使い方は以下のような具合だ。

 

「もし、何々だったら」と仮定の話を示して、「もし、そうであれば犯罪だ」と断定する。

 

問題なのは、犯罪を疑うような事実が確認されているわけではなく、ほぼでっち上げのような仮定をして断定している事だ。狙いは、視聴者に悪いイメージを植付ける為の「印象操作」だ。それを意図的に行っている。だから、自称ジャーナリストを謳っておきながら一切の取材をせずに発言する。調べてしまうと、そんな事実なんて無いと分かっているから当然取材などしないし出来るわけもない。その点で悪質だと判断できるのだ。件のテレビであれば、背景に使われる画像や映像と、おどろおどろしいBGMと合わせて放送する事により、相乗効果を生み、うっかりするといつの間にかそれが事実かのように刷り込まれ認識させられる。当然ではあるが、Youtubeの切り抜き動画なども、印象操作を目的として作られていると疑うべきだが、正義棒を振りまわし悪を退治していると信じている信者は、そんな事とは夢にも思わない。

 

注 ストローマン(英: straw man)は、議論において、相手の考え・意見を歪めて引用し、その歪められた主張に対してさらに反論するという間違っている論法のこと、あるいはその歪められた架空の主張そのものを指す。ストローマン手法、藁人形論法、案山子論法ともいう。(ウィキペディアより)

 

 

最近では、「裏金」=「すべて極悪」かのように結び付けられ、「裏金」と聞いただけで、パブロフの犬の如く無条件で批判の列に加わり、ののしり罵倒して憂さを晴らす輩が頻出する事態がみられる。裏金といっても、使い方に問題がないが、手続きが煩雑なので自由に使えるお金を貯めておく場合と、それこそ私腹を肥やすための裏金では大違いだ。本来のジャーナリズム、或いは報道とは、事例ごとに詳細に調べたことを公に知らしめる事であり、必要なら色の付いていない専門家を呼び、検証し伝えるのが使命の筈である。実際にはジャーナリズムの理想とは程遠く、倒閣運動の片棒を担ぐ工作機関の役割に徹しているかのようだ。さらに、「裏金」=「極悪」といったイメージが出来た段階で、「イエス」か「ノー」で答えろという質問をする。これは、説明をさせないという点で、少なくともフェアではないと言えるだろう。日頃、説明責任を果たせなどと声を張り上げながら、都合に合わせて「イエス」か「ノー」で答えろというのだ。この質問を悪用する人は、答えを聞きたいのではなく、視聴者に意図した印象を与えたいために行う。そこに考えが至らない、無垢な視聴者は、偽善者の笛と太鼓に乗せられて、哀れなタコ踊りを披露してしまう。

 

視聴者の多くは善良な国民ではあろうが、リテラシーについて教えられてこなかった無垢の存在という側面も併せ持っている。そのうちの何割かの視聴者は深く考える事をしない。だから、こういった印象操作が一定の効果をあげる。前出の某候補者はというと、劇場型選挙を組織的に展開して多くの票を得ようという戦略。政治家として実績はなくとも、発する言葉だけで信用してしまうような、よく言えば無垢な、悪く言えば無知な人々が乗せられてしまう現実がある。そこに付け込むように、意図して組織的に行っている。その組織こそ、しがらみであり、しがらみの無い議員など、その意味で存在(当選)できない構造になっている。選挙戦でついた嘘は、短期的にはバレにくくても、時間が経てばほぼバレる。数年前、吉本芸人が起こした闇営業が大きな問題になった際に、宮迫氏が記者会見で行った問題のすり替えや嘘は、当初一部の人の間で支持を得た。感情論ではなく冷静に聞いていれば、すぐに疑問に気がつき、嘘が見抜ける筈だが、吉本の経営陣を悪だと認定しそれと戦っているという姿勢を言葉巧みに話すと、一定数の人は乗せられてしまう。しかし、時間が経てば殆どの人が冷静に考えるようになるから、嘘が発覚するのは時間の問題だったのだ。真実を話し、謝罪したかった他の芸人の未来も奪いかねないその行為により、宮迫氏は自身のテレビ復帰をも困難にした。それまでの成功により、自身を過信した挙句、軍師気取りで取った行動が致命傷となった。そうなったのには、自身が一番高額なギャラを取っていたという負い目もあったのかもしれない。某都知事候補の手法にも同じ事が言える。議会を極悪化の如く認定し、騒ぎを大きくする事だけに終始した。そういった理由で、口だけで築き上げたその鍍金は、間違いなく近い内に剥がれ落ちるだろう。そういう事だから、都知事選に関してそれほど憂慮はしていないが、そこに日本の教育の失敗した部分を認識した上でその改善点を見出し、すぐに是正できるかどうかについては若干の不安がある。

 

先に触れた裏金問題に話を戻す。政治資金パーティー問題は、その収入の扱いに問題があるとされているが、野党は真相究明より政府批判をする事により、次回の選挙戦を有利にするという思惑の元で動いているようだ。だから、いつもの事だが国会での質問や取材でのコメントも印象操作に徹する。パーティーの開催自体もよろしくないという論調も出てきて、個人献金のみにと考える人もいる。では、それで問題が解決するかというと、詳細は書かないが、抜け道があって見えないところで利権政治が行われる可能性が高く、かえって危険とさえ言えるので駄目だ。企業による政治献金が利権の温床となるかどうかは、ならない方法があるのだから、それを忠実に実行するかどうか次第。そもそも、国を預かる国会議員に庶民感覚など、あろうがなかろうがそんな事は重要ではない。国会議員に託された仕事はそんなレベルのものではあるまい。国益を守るために、品行方正とは言えない国とも争わねばならないのだ。国会議員が最新のカップラーメンの値段を知っていて何になるのかと問いたい。小一時間問いたい。馬鹿も休み休み言え。庶民の事情をしり意見を汲み上げるのは、市会議員や村会議員の役目であろう。地方議員は市井で集められた声を集約し、必要なら上にあ持って行くのが役目だから、本来、国会議員の仕事ではないのだ。下らないばかりか、国益に反するのが所謂「モリ・カケ・桜」だ。森友の理事長は百万円を貰ったと騒ぎ、桜を見る会では、安倍首相の事務所が参加者の費用を払っただのと騒いでいた。

 

アホか。

 

私腹を肥やすどころか身銭切ってるだと?それでも、厳密に適用すると法律に抵触する部分があるかもしれないが、そんな小便刑で国会議員を、それどころか総理大臣をどうこうしようなんてのは暴挙でしかない。仮に、そうした事実が発覚したとしても、悪質で無い限り修正の上で減俸などのペナルティーを課すだけで十分だ。だいたい、その程度の事が政局になる方が、議会が止まり時間の無駄と余計な支出が増えるだけで、『日本人』にとって何の益もない。そういう無駄をするなと怒る国民が多いほど、安定した健全な社会といえるだろう。振り返ってみると、安倍政権が長く続いたという事は、逆説的に言えば健全な社会であった証左なのかもしれない。

 

各論ばかり述べたが、大事なのは総論をしっかりと語ることであろう。「政治」を語るには、大前提として、『国家』とは何かという認識が必要不可欠だ。人が集まりコミュニティーが出来る。大方の場合、そのコミュニティーを構成する人々は、コミュニティーを円滑に運営し、発展させるという目的を持つ事になる。そこで、役割の一つとして、専属でそれに充当する人材を選別し、任務を任せるような仕組みができる。少ない人数で構成される部族に過ぎなかったコミュニティーが、発展し人数が増えると、やがて村になり町や市となる。成り立ちは様々であるが、それらの最大単位が『国家』である。「国民」は国家の構成員であるが、政治家や役人もまたコミュニティーの運営を任された「国民」である。「国民」のすべては、国家に対して義務と責任を負う。その中で、自由に振舞い、様々な権利をを得ることが出来る。近頃、理解していないのか勘違いしている国民が増えてきた。政治家だろうが、役人だろうが、同じ国民であって普通に家族もいる。国民とは国家の構成員であって、お客様でも神様でもない。

 

そういった視点で考えると、減税や廃止が公約に挙がることの多い消費税は、実はとても公平な税制と言える。お金を沢山使えるお金持ちほど多額の税金を払うのだから、公平であり或る意味まっとうである。こう言うと、税の逆進性を言い出す人がいるのだが、それは誤魔化しに過ぎない。誰が何と言おうと、消費税は脱税が難しい上に、実際に払う金額には明確に算出される税制に違いはないのだ。消費税を10%とするなら年間1億円使う人は一千万円を納め、百万円使う人は十万円だけ納める。その差額は九百九十万円だ。それでも逆進性に拘るのであれば、低所得者に税金を還付すればいいだけだ。また、表向き子供は国の宝だからという主旨で、学費を無償にしろと主張したり、優遇しろというのも欺瞞に満ちている。その証拠に、将来立派になってお金を稼ぎ、沢山の税金を納めるようにと我が子供を育てる親など殆どいない。そういう彼らも、自分のために、我が子の為だけを思い、日々生活しているのではないか。そうであるにも係わらず、上級国民などという敵を提示され、それに乗って対象を攻撃する事で憂さを晴らす。そうやって簡単に煽動に踊らされる国民が増えたら国家は衰退に向かう。ポピュリズムの蔓延がいかに害があるかは論を俟たない。経済の停滞や少子化の原因は国民の意識の変化・ライフスタイルの変化に原因があって、構造的な問題だから、いち政治家や政党によって発展したり衰退する性質のものではない。

 

では、日本人のライフスタイルはどう変化したのかというと、大きく家制度の否定による核家族化だろう。一時期DINKs(ダブルインカムノーキッズ)というライフスタイルが持て囃されたりしたから、物理的に少子化へ向かうのは当然だった。ただ、その頃は、世界的な人口爆発による食糧問題や環境問題が懸念されており、少子化はむしろ歓迎される傾向もあったので、一概には悪いと言えない面も多々ある。出生数の減少だが、男女比が同じとすると、ひとりの女性が生涯において、平均で2人以上の子供を産まないと人口は減る。家制度の維持や、幼児の死亡率が高かった時代は、跡継ぎ問題などがあって、社会的に多産傾向にあったが、現代の核家族ではその必要性が薄れてゆく。他の要因としては、都心への人口集中もある。多くの人が暮らす都心となると、祖父母、親、子供といった三世代の構成は住宅の確保が難しく核家族になりがちだ。生まれ育った土地を離れたくないお年よりも多く、地方の過疎化も進む。それらの複合的要素も加わり、少子化は構造的に進む事になる。この問題を解決するには、小手先の政策ではとても叶わない。消費税を下げるとか、子育て世代に補助金を出す、学費を無償にするなど、焼け石に水どころか、わずかな効果すら怪しい。何故なら、構造的な問題なのに、そこになんら手を付けない政策だから。こんな政策を掲げる者こそ無能の謗りを受けて然るべきだ。

 

政策を立案する者は国家観を持ったうえで、先ず2つの方向で政策を考えなくてはならない。一つ目は、少子高齢化を容認して、それに合わせた社会にソフトランディングさせる政策。もう一つは、少子化を解消するために、構造的な問題を物理的に解消する政策の構築だ。どちらにせよ、現状と今後の姿を示し、国民から広く意見を聞き、コンセンサスを得る事から始めなければならない。

 

少子化容認は望まれてなさそうなので、後者の構造問題の解消に付いてだけ持論を述べたい。少子化の解消には、少なくとも子供を多く産み育てる事が可能な条件を満たす環境を作り出すことであろう。少子化に向かっている要因として、核家族化と進学率の上昇がある。子育てに爺さん婆さんの手を借りられない、大学まで行かせる学費を考えると子供は多く持てない。ならば、ここを解消すればいい。国は大家族を優遇し、行くだけ無駄な大学を潰してしまえば良い。役に立たない大学の4年間は、時間とお金の浪費だ。本人にも国家のためにもならない大学は害悪でしかない。そこで、若い人材に時間の浪費をやめて活躍して貰うため、大学出のアドバンテージをなくしてしまう政策が成功のキモになる。日本が移民の力を借りずに、少子化を是正したいのであれば、中卒・高卒中心社会を目指すしかない。大学は本当に優秀な者だけが進むようにして、90%くらいは潰してしまう。もっと義務教育を充実させて、社会で役に立つ人材を育成する。それに加え、企業に補助金を出すなどして、企業が中卒・高卒を受け入れやすい土壌を作る。親世代は大学に行かせる学費の負担が減るぶんの余裕が出来る。子育てに関しても、祖父母に任せられるのであれば、更に余裕が出来るから、多産に向く構造が出来る。マインドの問題はあるが、物理的な条件が揃わない事には話にならない。子供世代で考えた場合、若くして社会に出る事で起こる、コミュニティー全体へのインパクトは決して小さくはない。18歳から22歳のプレイヤーが社会に増えるという事は、それだけで経済のパイを大きくする事に繋がる。その年代が経済力を持つ事で、新しい商品の需要が起きて経済が活性化する。他方、人手不足の解消にも効果があり、移民に頼らない方向ではベストな政策である。若くして経済力を持つ若者が多い社会は、大学進学率の高い社会より晩婚化にならないという構造的な側面がある。若い夫婦が多く誕生する社会は、生涯において多くの子供を持つ事に利するから、少子化傾向がはっきりと緩和される。少子高齢化の対策は、社会構造の変革か、少子化を容認し、減少を続け底を打つまで耐えてプラスに転換するのを待つかしかない。多くの日本人がその認識を持ち何らかの選択をしない限り、このまま出生率が続落の道を辿るだけである。

 

とにもかくにも、国家の運営に必要不可欠な事として、十七条憲法で最初に書かれているのが、

 

「和を以って貴しと為す」

 

という文言なのだ。

それに真っ向から反するが如き行いをし、また言辞を弄して、

無垢な人々を操る候補者にこそ、次の言葉が当て嵌まる。

 

「恥を知れ、恥を」

 

舌鋒鋭く、他者を悪人に仕立て敵対構造を作ったうえで指弾する。

説得して理解を得る努力をなぜしない?

演説が上手い?

それの何が貴重なのか?

 

 

 

さて、話の筋はまったく違う聖徳太子の話。

 

令和6年7月3日 新日本銀行券 発行予定

https://www.npb.go.jp/ja/n_banknote/index.html

 

新一万円札は渋沢栄一となるが、一万円札としては三人目。

現行は福沢諭吉、一人目が聖徳太子。