この事故は、20世紀の世界を揺るがせた大事故のひとつとして知られています・・・1 | KEIのブログ

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5月6日です。5月6日は、「ヒンデンブルク号爆発事故」です。「ヒンデンブルク号爆発事故」は、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指します。

ということで、今日は、「ヒンデンブルク号爆発事故」について、書きたいと思います。参考までです。





ヒンデンブルク号爆発事故について―。


ヒンデンブルク号爆発事故(ヒンデンブルクごうばくはつじこ、Hindenburg Disaster)とは、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指す。

この事故で、乗員・乗客35人と地上の作業員1名、合わせて36名が死亡、多くの乗客が重症を負った。映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道されたことで、大型硬式飛行船の安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。

1912年4月14日に起きたイギリスの豪華客船タイタニック号沈没事故、1986年1月28日に起きたアメリカのスペースシャトル・チャレンジャー号爆発事故などとともに、20世紀の世界を揺るがせた大事故のひとつとして知られている。


硬式飛行船の黄金期

硬式飛行船の第1号は1900年のLZ1で、1909年には、飛行船による航空輸送を行うツェッペリン飛行船会社が設立された。

硬式飛行船の設計が優れている点は、浮揚用水素ガス袋と、船体構造とを分離した点にある。従来の軟式飛行船は、ガス袋そのものを船体としていたため、変形しやすくなり、高速飛行は不可能であった。硬式飛行船はアルミニウム合金の多角形横材と縦通材で骨格をつくり、張線で補強し、その上へ羽布(麻または綿布)を張って流線形の船体を構成し、ガス袋を横材間に収めた。

このような構造をもつ硬式飛行船は、船体の外形を保持することができ、飛行機よりは遅いものの、駆逐艦には追尾できない高速(特急列車と同程度)を発揮した。飛行船は実用的な空の輸送手段となった。

硬式飛行船の優れたもう一点は、大型化を可能にしたことである。飛行機と違って、ツェッペリン飛行船の浮力は寸法の3乗である体積に比例し、一方、構造重量は「大雑把に球体とみなすと、構造材の量は表面積によると考えれば寸法の2乗に比例する」ので、単純に寸法に比例して搭載貨物を増大できる。

第一次世界大戦中には119隻建造されて、偵察や爆撃などに用いられたが、空爆による軍需工場破壊や国家そのものに与えるダメージだけでなく、空を舞う威圧的な飛行船を見せて敵国の市民の戦意をそぐことも視野に入れられていた。

ただし、軍事行動中に撃墜されたものもあり、またそれ以上の数の飛行船が悪天候で遭難した。また、複葉機の台頭に伴い、次第に戦果が挙げられなくなる。

第一次世界大戦後の1928年、ツェッペリン飛行船会社は、LZ127グラーフ・ツェッペリン(ツェッペリン伯)号を建造して、世界一周に成功。このときは日本(茨城県霞ヶ浦)を含めた世界各地に寄港し、各地を熱狂させた。

爆発事故

その後、1930年代後半のナチス党時代に、ドイツの威信をかけたLZ129ヒンデンブルグ号は花形である大西洋路線に就航。しかし、そうした硬式飛行船の黄金期は、突如として幕を閉じる。

ヒンデンブルク号は、マックス・ブルス船長の指揮のもと、ドイツ・フランクフルトを発ち(現地時間5月3日20時20分、アメリカ東部時間5月3日14時20分、日本時間5月4日4時20分)、2日半の大西洋横断後、現地時間(アメリカ東部時間)1937年5月6日19時25分(日本時間5月7日8時25分、ベルリン・フランクフルト時間5月7日1時25分)頃、アメリカニューヨーク近郊のニュージャージー州マンチェスター・タウンシップのレイクハースト海軍航空基地着陸の際に、尾翼付近から突如爆発。ヒンデンブルク号は炎上しながら墜落し、乗員・乗客97人中35人と地上の作業員1名が死亡した。

このときの様子は写真・映像及びラジオ中継により記録[1]され、現在も事故直後の様子を知ることができる。また、映像技術の発展に伴い、モノクロ映像だったヒンデンブルク号の映像を処理してカラー化されたものも出ている。

事故原因

事故発生当時は水素ガス引火による爆発事故ということで、浮揚ガスに水素ガスを用いるのは危険だとする説が流布された[2]。

ツェッペリン社は原因については一切公表しなかったが、濡らした外皮に電流を流して発火させる実験を行い、外皮が事故の原因であるとの結論に達していた。この事実をツェッペリン社が公表しなかったのは、保険金の問題もしくは国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の圧力が原因であると考えられている。その後、ツェッペリン社は外皮塗料を改良した新型機を製造したが、アドルフ・ヒトラーの指示により解体された。

その後、1997年にNASA・ケネディ宇宙センターの元水素計画マネジャー、アディソン・ベイン(英語版)が当時の証言、映像分析、そして実物の外皮[3]の分析により、事故の原因はヒンデンブルク号の船体外皮の酸化鉄・アルミニウム混合塗料(テルミットと同じ成分である)であると発表した。

彼の説は、ヒンデンブルク号の飛行中に蓄積された静電気が、着陸の際に着陸用ロープが下ろされた瞬間に、外皮と鉄骨の間の繋ぎ方に問題があったために十分に電気が逃げず、電位差が生じて右舷側[4]尾翼の前方付け根付近で放電が起こったことから外皮が発火・炎上した、というもので、現在ではこの説が有力になりつつある(この場合、浮揚ガスが水素でなくヘリウムの場合でも飛行船の外皮は炎上する。ただし、水素と違ってヘリウムは爆発しないので被害は少なくなる)。以上の説は、1999年にイギリスのトゥエンティ・トゥエンティ(英語版)制作のテレビ番組 "Secrets of the Dead, What Happened to the Hindenburg?" でベイン自身の解説とともに取り上げられ、日本でも翌2000年6月16日にNHK総合で「ドキュメント 地球時間 ヒンデンブルク号 豪華飛行船の悲劇」として放送された。

また、「ドイツ政府の工作員による自爆テロだったのではないか」という陰謀説もある。当時、「飛行機の実用化を進めていたドイツにとって、『飛行船はもはや時代遅れ』という見方が強まっており、大衆の目前で飛行船の危険性を印象づけることで航空機への転用を図ろうとした」という理由であるが、この説には証拠となる証言や物的証拠は一切存在せず、ツェッペリン飛行船製造会社と、当時ドイツの政権政党であったNSDAPは仲が悪かったという状況証拠のみを根拠としている。

また、ヒンデンブルク号はドイツの威信を象徴する乗り物であり、さらに外遊先の敵国アメリカで、大事故を起こし全世界に醜態をさらすことなど、国家の体面を非常に気にしていたヒトラーやドイツのNSDAP政権が許すはずもないため、NSDAPを嫌うツェッペリン社社長エッケナー博士の破壊工作と言う説もあるが、これもツェッペリン飛行船製造会社とNSDAPは仲が悪かったという状況証拠のみを根拠としている。

事故後の影響

この事故の後、飛行船の安全性に対する信頼は打ち砕かれ、水素で満ちた飛行船による旅客輸送は許容されなくなってしまった。例えば、世界一周の偉業を遂げたLZ 127は事故の1ヶ月後にその役目を終え、博物館に収蔵されることになった。また、ドイツ国内のほかの飛行船も、第二次世界大戦の勃発と共に相次いで引退、その生涯を終え、飛行船時代に幕を下ろした。

1940年3月、ドイツ空軍元帥であったヘルマン・ゲーリングは、残るすべての飛行船の破壊を命じ、アルミニウム製の部品をドイツ戦争産業省へと供給した。一方、アメリカ海軍はドイツ海軍の方針を引き継いでツェッペリン型飛行船を採用したが、採用について、浮揚ガスにはヘリウムガスを使用した。しかし、アクロン号を始めとして、ほとんどが荒天で難破した。

1975年、ユニバーサル映画がこの史実を、人為爆破説に基づき映画化した。ロバート・ワイズ監督、ジョージ・C・スコット主演でタイトルはそのまま「ヒンデンブルグ」(The Hindenburg)。飛行船内部の詳細な再現に加え、爆発後のシーンに、実際のニュースフィルムが用いられたことも話題となった。

その他

・1969年に発売されたレッド・ツェッペリンのデビューアルバム『レッド・ツェッペリン I』のジャケットに、爆発する飛行船の写真が使用された。
・井上陽水のシングル「最後のニュース」のジャケットにヒンデンブルク号爆発事故の写真が使用されており、曲中にも爆発事故を表す歌詞がある。
・MBS『世界まるごとHOWマッチ』では破片の一部がクイズの問題として紹介され、日本テレビ『世界まる見え!テレビ特捜部』、『ザ・ショックス!!』でも紹介された。
・『怪しい伝説』ではミニチュアによる事故の再検証を行い、塗料によって引き起こされたテルミット反応とガス袋の中身であった水素が原因であると結論づけた。
・事故から生還したヒンデンブルク号の操舵手の息子にあたるヘニング・ポエティウスが、『ヒンデンブルク炎上』という小説を発表している。


関連する作品

映像作品

・ドキュメンタリー『衝撃の瞬間』第3シリーズ 第13回『ヒンデンブルグ号の火災(原題: The Hindenburg)』(ナショナルジオグラフィックチャンネル)
 ・この番組では、アメリカ国家運輸安全委員会 (NTSB) の航空事故調査官により、この事故が再検証された。
・ドキュメンタリー『炎上 ヒンデンブルク号』(ディスカバリーチャンネル)
・ドキュメンタリー 『失われた世界の謎』シリーズ 第32回『飛行船の黄金時代』(ヒストリー・チャンネル)
・ドキュメンタリー『たけしの万物創世記』(朝日放送テレビ(当時:朝日放送) 2000年9月放映)
・映画『ヒンデンブルグ』(1975年 ロバート・ワイズ監督)…この作品では陰謀説が爆発の原因として描かれており、作中では腕時計を改造した小型爆弾で爆発した。また、当時のヒンデンブルク号爆発の映像も使用されている。
・ドキュメンタリー「Secrets of the Dead, What Happened to the Hindenburg?」(1999年、2000年発売。Pbs)
 ・上記の通り、アディソン・ベインにより外皮発火説が事故の原因として解説されており、生還したヒンデンブルク号の乗客や事故の目撃者の証言、そして外皮を回収した愛好家などのインタビューが収録されている。
・TV映画『ヒンデンブルグ 第三帝国の陰謀』(2011年 フィリップ・カデルバッハ監督)…爆発事故に着想を得たフィクション映画。日本では2013年に劇場公開された。
・ドキュメンタリー映画『カタストロフ/世界の大惨事』(1977年 ラリー・サヴァドヴ監督、ウィリアム・コンラッドナレーション)…フランクフルト離陸から爆発炎上まで、船内の様子も交えた貴重な映像が収められている。

書籍

・Mickael Macdonald Moony(著)、筒井正明(訳)、『悲劇の飛行船』、平凡社、1973年

脚注

1^ 本来は到着の瞬間を実況するはずだったシカゴのラジオ局アナウンサー、ハーブ・モリスンが「大変です! ヒンデンブルクが突然火を噴きました! 本当です! これはどうしたことでしょう! 上空150メートルの所で燃えています! どんどん火の手が大きくなっています! 船体が地面に激突しました! ちょっと、前の人どいて下さい! どいて、どいて! ああ、なんと見たこともない恐ろしい光景だ! 最悪の事態だ! もう、言葉になりません! とても実況などできません!…」などと伝え、最後には涙声となる。なお、映画版でも実況しているモリスンの姿が出ているシーンがあり、それも再現されている。
2^ もともとヒンデンブルク号はヘリウムガスを使用する予定であったが、アメリカが当時の法律で不燃性のヘリウムガスの輸出を禁止したため、やむなく水素ガスを使用していた。
3^ 事故直後に地元の飛行船ファンが回収・保存していた
4^ 事故の証人はほとんど左舷側におり、右舷側の証人はわずか2名だったこともあり、事故調査においては無視されていた


外部リンク

・ツェッペリン型飛行船(英語)
https://www.google.com/search?q=%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%9E%8B%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%88%B9%EF%BC%88%E8%8B%B1%E8%AA%9E%EF%BC%89&rlz=1C1AFAB_enJP579&oq=%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AA%E3%83%B3%E5%9E%8B%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%88%B9%EF%BC%88%E8%8B%B1%E8%AA%9E%EF%BC%89&aqs=chrome..69i57&sourceid=chrome&ie=UTF-8

・Myths about the Hindenburg Disaster
https://www.airships.net/hindenburg/disaster/myths/

・Refutation and Discussion of Dessler, Overs, and Appleby
https://spot.colorado.edu/~dziadeck/zf/LZ129fire.htm

・The Hindenburg Hydrogen Fire: Fatal Flaws in the Addison Bain Incendiary-Paint Theory June 3, 2004:ベインの説への反論
https://spot.colorado.edu/~dziadeck/zf/LZ129fire.pdf


今日は、「ヒンデンブルク号爆発事故」につい、書いています。「ヒンデンブルク号爆発事故」は、1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故を指します。


炎上事故をおこした、ドイツの硬式飛行船・LZ129 について、書きたいと思いま。参考までです。


LZ 129 (飛行船)について―。

LZ 129(独: Deutsche Luftschiff Zeppelin #129、登録符号: D-LZ 129)「ヒンデンブルク」は、ドイツの旅客輸送用巨大硬式飛行船。今日までに作られたあらゆる飛行機械の中で最も巨大な、ヒンデンブルク級飛行船の1番船である。2番船にグラーフ・ツェッペリン二世がある。

ヒンデンブルクという名は、1925年から1934年までドイツ大統領だったパウル・フォン・ヒンデンブルク(1847年 - 1934年)の名をとったものである。

1936年3月に運航を開始し、第2シーズンの最初の北アメリカ行き大西洋横断飛行の最後に爆発火災で破壊されるまで、14か月間運航した。爆発事故は1937年5月6日、ニュージャージー州マンチェスター・タウンシップにあるレイクハースト海軍航空基地に着陸時に発生し、36名が死亡した。この出来事は、映画、写真、ラジオなどの各メディアで広く報道された。

LZ 130 (飛行船)
https://ja.wikipedia.org/wiki/LZ_130_(%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%88%B9)


設計と開発

ヒンデンブルクの構造材はジュラルミン製で、全長に沿って15枚の大観覧車のような隔壁が取りつけられていた。そしてそれにはさまれて16個の木綿製のガス嚢が置かれた。各隔壁はその外周に置かれる縦の桁によって強化されていた。飛行船の外皮は、紫外線から気嚢を保護するためと、オーバーヒートの原因となる赤外線から守るためにドープを塗った木綿でできていた。しかし、使われた薬品はアルミニウムと酸化鉄の混合で、激しく熱せられるといわゆる「テルミット反応」を起こすものであった。

ヒンデンブルクの内装は、プルマンコーチや外洋客船、ドイツ海軍の軍艦などの経験を持つフリッツ・アウグスト・ブロイハウス教授によってデザインされた[1]。上層のAデッキは、中央に旅客用の小さな区画と大きなパブリックラウンジが並び、ラウンジとダイニングルームが左舷に、ライティングルームが右舷に配置されていた。ダイニングルームの壁にはグラーフ・ツェッペリンの南アメリカへの飛行の絵が描かれていた。ラウンジの壁は枠つきの世界地図に覆われていた。両デッキには、全長にわたって傾斜した長い窓が設けられていた。乗客は、窮屈なキャビンよりむしろこのラウンジで大半の時間を過ごすよう考えられていた[2]。ヒンデンブルクの乗客は、これが史上もっとも贅沢な航空機であるということを疑わなかった。そして、ただの一人も飛行機酔いにかからなかった。

下層のBデッキには洗面所、乗員用食堂と喫煙ラウンジがあった。グッドイヤー・ツェッペリン社のアメリカ側代表者であるハロルド・G・ディックは次のように回想している。『漏れた水素が一切侵入しないように加圧された喫煙室への唯一の入り口は、回転するエアロックドアを持つバーの向こう側にあった。出ようとする乗客は、火の付いたタバコやパイプを持ち出さないかどうか、バーのスチュワードによってとことん調べ上げられた。』[3]

水素の使用

浮揚ガスとしては、飛行船には最も安全であるとして不活性のヘリウムが選ばれたが、当時それはあまりにも高価であり、アメリカ合衆国の天然ガス備蓄から供給されていた。それに比べて水素は、誰にでも安価に生産でき、また水素とヘリウムの比重差から、浮揚できる重量や上昇高度もヘリウムに比べて多大であった。ヘリウムを使用するアメリカの硬式飛行船はガスの徹底的な節約を強いられ、それが活動を妨げていた。

水素で浮揚する飛行船は必要なときにはガスを排出することができたが、高価なヘリウムで浮揚する飛行船は、軽すぎて降下できないときにはガスを排出できず、構造に無理がかかっても力学的な方策を採らねばならなかった。アメリカ合衆国は最初ドイツにヘリウムを売りこもうとしたが、すぐにドイツに対する軍需物資の禁輸が行われたために、ヒンデンブルクは水素を使用するように変更を強いられた。

可燃性の水素を使うことの危険性は明らかだったが、十分な浮揚力を提供する十分な量が用意できるガスは他には存在しなかった。水素を使用することの効果の一つは客室を追加できると言うことだった。水素による旅客飛行船を一人の死傷者も無く運用した長い歴史を持つドイツは、水素の安全な使用に熟達しているという大きな確信を持っていた。水素とともに飛ぶということは、今日では信じられないほど危険な行為だが、当時は全く合理的であると考えられたのである。ヒンデンブルクの最初のシーズンは、これを証明したかのようであった。

運航歴

1931年以降5年にわたる断続的な工事の末、ヒンデンブルクは1936年前半についに完成し、3月の最初の3週間に6回の慣熟飛行を行った。ヒンデンブルクはツェッペリン飛行船会社(英語版)、ドイツ航空省とルフトハンザドイツ航空 (Deutsche Lufthansa AG) が1935年3月に合弁で設立しドイツ・ツェッペリン運航会社 (Deutsche Zeppelin-Reederei GmbH) によって商業運航を行った(この会社は、1935年から1937年まで、グラーフ・ツェッペリン号の最後の2年間の南アメリカへの商業運航も行った)。ヒンデンブルクは大西洋横断の定期旅客輸送を行うために作られた2隻の飛行船の1隻目であったが、実際に商業運航に従事したのは本船のみだった。

ドイツ飛行

しかし、ヒンデンブルクの最初の公式飛行は本来の目的である大西洋横断旅客輸送でなく、ナチス党の宣伝手段としてであった。初飛行した3月4日の3日後、ドイツ軍はオランダ、ルクセンブルク、ベルギー、フランスと国境を接するラインラントに進駐した。そこは1920年に締結されたヴェルサイユ条約で、ドイツとライン川の西の近隣4ヶ国との間の緩衝区域として非武装化が定められていた場所だった。この行動を「正当化」するため、ヒトラーは速やかに3月29日に国民投票を行うことを宣言した。この国民投票はヒトラーを総統として再信任することと、ロカルノ条約違反であるこのラインラント進駐を「批准する」ことを「ドイツ国民に尋ねる」ためのもので、ヒンデンブルクとグラーフ・ツェッペリンはその過程で重要な役割を担うことになっていた。

投票の4日前、ドイツの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは、2隻の飛行船が3月26日の朝にフリードリヒスハーフェンを一緒に離陸して縦隊を作り、ドイツ上空でいわゆる「ヒトラー再選とラインラント国民投票飛行」(「ドイツ飛行 (Deutschlandfahrt)」)を行うよう要求した[4]。本船の「ヒンデンブルク」という名前は、1年以上も前からそう命名されることが知られていたが、この日ついに船体に書かれたその名が姿を現した[5]。
その朝の風の状態は離陸に適していなかったが、ヒンデンブルクを指揮していたエルンスト・レーマン船長は、速やかに離陸を行うことによってその場に居合わせた政治家たちに感銘を与える決意だった。飛行船はエンジンを最大出力で稼働させて堂々と上昇し始めたが、一陣の風が船を打ち、下方の尾翼が地面に当たり後端が損傷してしまった[6]。フーゴー・エッケナー博士は激怒し、レーマンを次のように非難した。


レーマン君、君はどうしてあのような強風の中で離陸命令を下すことができたのか。君はこのばかげた飛行を延期するのにこの上ないほどの理由を持っていたのに、ゲッベルス氏を落胆させないというだけのためにあえて危険を冒した。君はこれを我々の事業に対する責任感の現れであるとでも言うのか?

— フーゴー・エッケナー『わがツェッペリン飛行船 ("My Zeppelins")』(ダグラス・ロビンソン英訳), Putnam & Co. Ltd., 1958, pp 150-51

ヒンデンブルクに応急修理が行われる間、グラーフ・ツェッペリンは単独で宣伝飛行に飛び立った。ヒンデンブルクはやや小型の僚船にその日のうちに合流した[7]。何百万ものドイツ人が見上げる中、2隻の空の巨人はそれから4昼夜にわたってドイツ中を飛行し、その間、宣伝ビラを撒き、大きな拡声器から勇ましい音楽とスローガンをがなりたて、ヒンデンブルク上の仮設のラジオスタジオから選挙演説を放送した。

その「選挙」(それにおいてヒトラーは99パーセントの「賛成」票を獲得した)の2日後、ヒンデンブルクは最初の商業フライトであるリオデジャネイロ行き大西洋横断飛行を行った[8]。エッケナー博士が指揮を取らなかったのはツェッペリン伯爵の死去以来初めてのことだった。博士はレーマン船長が船を指揮している間は、ただの乗客の一人としてすごし、飛行船の行動について一切の口出しをしなかった[要出典]。

旅行中、エッケナーは不愉快な知らせを聞いた。それは、彼はもはやナチスから「存在しない者」と見なされ、いかなるメディアからも言及されないようになっているというものだった。リオデジャネイロへ向かう途中で1基のエンジンのリストピンが破損するという故障が生じ、レシフェにとどまらざるを得なくなり、全出力で飛行することが出来なくなった。復路、整備士が修理していたところ、別のエンジンにも同じ問題が起こった。ヒンデンブルクはいまや2基のエンジンで動いており、墜落が待ち構えているサハラ砂漠に向けて漂流しているといっていい状態だった。乗組員は、通常、(船の気圧に相当する高さをはるかに越えている)5,000フィート (1,500メートル) の高度を吹いている逆の貿易風を捜すために、船を上昇させた。ヒンデンブルクはその風を3,600フィート (1,100メートル) で捕まえ、フリードリヒスハーフェンに戻ることができた。2基のエンジンは修理によって部分的に出力を回復し、さらに後日オーバーホールされた。その後は、どちらのエンジンにも問題は起きなかった。


商業旅客飛行

ヒンデンブルクはフル稼働した最初の(そして唯一の)年である1936年に、アメリカ合衆国へ10回、ブラジルへ7回、計17回の大西洋横断往復飛行を行った。1936年7月には、5日19時間51分という、大西洋往復飛行記録を樹立した。ドイツのボクサー、マックス・シュメリングは、ジョー・ルイスを破ったあと、ヒンデンブルクに乗ってフランクフルトに凱旋した[9]。ヒンデンブルクはその年、308,323キロメートルを飛び、2,798人の乗客と160トンの貨物および郵便物を運んだ。この成功により、ツェッペリン飛行船会社は飛行船隊と大西洋横断サービスの拡大を計画した。

墜落事故を起こすちょうど1年前の1936年5月6日に、ヒンデンブルクはドイツを発ってその年の10回の北米飛行の1回目を行い、3日後にニュージャージー州レイクハーストに到着した。乗客たちにとって船は極めて安定しており(伝えられるところでは、ペンや鉛筆をテーブルに立てても倒れることがなかったという)、離陸しても何人かはそれに気づかず、まだ地上にあると思っていたほどだった。ドイツ・レイクハースト間のチケットは400米ドル(2018年に換算するとおよそ7,345.64米ドル(1ドル110円換算で約80万8千円)[10])で、不況の時代にはかなりの金額であると言えた。ヒンデンブルクの乗客はみな裕福であり、産業界の指導者も多く含まれていた。

ヒンデンブルクはまた宣伝目的のためにも使われ続けた。1936年の夏季オリンピック開会式の行われた8月1日にはベルリンのオリンピックスタジアム上空にも登場した。アドルフ・ヒトラーの到着直前、ヒンデンブルクはゴンドラからオリンピック旗をたなびかせ、大スタジアムの上空を横切った。

最初の年の運行期間中、ヒンデンブルクの音楽サロンには特別なアルミニウム製のブリュートナー・グランドピアノが置かれていた。そのピアノは航空機で使用された最初のピアノであり、ラジオで初めて「空中コンサート」を放送した。このピアノは重量を節減するため、最初のシーズンの後、取り外された[11]。

1936年から1937年にかけての冬の間にいくつかの変更が加えられた。2つのベッドを持つ9つの客室と、4つのベッドを持つ客室1つが追加され、旅客輸送能力は全部で72名となった。加えて、バラストとして使用するために雨水を集める「樋」も取り付けられた。

最後の飛行

詳細は「ヒンデンブルク号爆発事故」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%8F%B7%E7%88%86%E7%99%BA%E4%BA%8B%E6%95%85


1937年のシーズンに入ると、ヒンデンブルクは3月下旬に南アメリカへの最初の飛行を行い、その後、その年最初のヨーロッパ・アメリカ合衆国間の周航を行うためにフランクフルトからアメリカ、ニュージャージー州レイクハーストに向けて飛び立った。5月3日の夕方のことであった。強い向かい風で横断は遅れたが、それ以外は順調に進み、3日後には着陸のためのアプローチを開始した[12]。

現地時間5月6日の午後7時ごろ、マックス・プルス船長が操舵するヒンデンブルクは650フィート (200メートル) の高度で、レイクハースト海軍航空基地に接近し、着陸準備を開始した。25分後、係留塔の上空で飛行船は発火し、わずか37秒のうちに完全に炎に包まれた。船上には36人の乗客と61人の乗組員がいたが、乗客13人と乗組員22人が死亡した。また地上整備員も1人が死亡した。事故の犠牲者は合計36人となった。

火災の原因である最初の発火の位置は今でも議論の対象となっている。多くの説が提唱されたが、事故の原因は今でも確定されていない。水素ガスが漏洩したとしても燃えるのは空気と混合した後である。船体外皮も非常に燃えやすい材料を含んでおり、静電気の火花が燃え移ったというのが多数説となっている[13]。

なお、二号船グラーフ・ツェッペリン二世はドープ材の材質を改善して不燃性を高めたが、すでに飛行船の時代は終わっており、戦時中に「廃船」にされた。

大衆文化との関連

・ヒンデンブルクの実際の映像は1937年のチャーリー・チャン映画『チャーリー・チャンとオリンピック (Charlie Chan at The Olympics)』[14]に登場する。そこではチャンが1936年のベルリン・オリンピックに向かう大西洋横断飛行(1936年8月1日-8月16日)に搭乗していた設定になっている。映画は1937年5月21日、実際のヒンデンブルク爆発事故の15日後に公開された。
・レッド・ツェッペリンの同名のアルバムの表紙に爆発する飛行船のイメージが使用された。
・ペンドラゴン・ファンタジー・シリーズの3冊目『The Never War』はヒンデンブルク号爆発事故を題材にしている。
・映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の最初の劇場公開版では、主人公のインディはヒンデンブルク号に搭乗することになっていた。しかし映画の物語は明らかに1938年以降のものであるのに対し、その時点ではヒンデンブルクはすでに存在していないため、以降のリリースにおいては、飛行船の備品などにあった船名がデジタル処理で削除された[15]。

要目

・乗員: 40 - 61名
・乗客: 50 - 72名
・全長: 245 m
・直径: 41 m
・ガス容量: 200,000 m3
・エンジン: ダイムラー・ベンツ1,200馬力V型16気筒ディーゼル・エンジン4基
・最高速度: 135 km/h

参考資料

脚注

1^ Lehmann 1937, p. 319.
2^ Dick and Robinson 1985, p. 96.
3^ Dick and Robinson 1985, p. 97.
4^ 「ドイツ飛行」のためにフリードリヒスハーフェンを出発する準備をしているヒンデンブルクとグラーフ・ツェッペリン(写真)
http://specialcollections.wichita.edu/exhibits/haldick/images/hd-propa.JPG

5^ The Airship誌(イギリスの季刊誌)1935年春号
6^ 損傷した下方垂直尾翼(ハロルド・ディック撮影)
http://specialcollections.wichita.edu/exhibits/haldick/images/hd-fins1.JPG

7^ 下方垂直尾翼の応急修理(ハロルド・ディック撮影)
http://specialcollections.wichita.edu/exhibits/haldick/images/hd-fins2.JPG

8^ Mooney 1972, pp. 82–85.
9^ Berg, Emmett. "Fight of the Century". Humanities, Vol. 25, No. 4, July/August 2004. Retrieved: 7 January 2008.
10^ Data
https://data.bls.gov/cgi-bin/cpicalc.pl

11^ A History of the Blüthner Piano Company. Retrieved: 7 January 2008.
https://www.bluethnerworld.com/en/

12^ Cause of the Hindenburg Disaster Aerospaceweb.org
http://www.aerospaceweb.org/question/investigations/q0277.shtml

13^ Hydrogen Exonerated in Hindenburg Disaster
https://www.aps.org/publications/apsnews/200007/hindenburg.cfm


14^ http://us.imdb.com/title/tt0028708/
https://www.imdb.com/title/tt0028708/

15^ http://www.imdb.com/title/tt0097576/ 『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』
https://www.imdb.com/title/tt0097576/

文献

・Archbold, Rick. Hindenburg: An Illustrated History. Toronto: Viking Studio/Madison Press, 1994. ISBN 0-670-85225-2.
・Birchall, Frederick. "100,000 Hail Hitler; U.S. Athletes Avoid Nazi Salute to Him". The New York Times, 1 August 1936, p. 1.
・Botting, Douglas. Dr. Eckener's Dream Machine: The Great Zeppelin and the Dawn of Air Travel. New York: Henry Holt & Co., 2001. ISBN 0-8050-6458-3.
・Deutsche Zeppelin-Reederi. Airship Voyages Made Easy (16 page booklet for "Hindenburg" passengers). Luftschiffbau Zeppelin G.m.b.H., Friedrichshafen, Germany, 1937.
・Dick, Harold G. and Douglas H. Robinson. The Golden Age of the Great Passenger Airships Graf Zeppelin & Hindenburg. Washington, D.C. and London: Smithsonian Institution Press, 1985. ISBN 1-56098-219-5.
・Duggan, John. LZ 129 "Hindenburg": The Complete Story. Ickenham, UK: Zeppelin Study Group, 2002. ISBN 0-9514114-8-9.
・Hoehling, A.A. Who Destroyed The Hindenburg? Boston: Little, Brown and Company, 1962. ISBN 0-445-08347-6.
・Lehmann, Ernst. Zeppelin: The Story of Lighter-than-air Craft. London: Longmans, Green and Co., 1937.
・Majoor, Mireille. Inside the Hindenburg. Boston: Little, Brown and Company, 2000. ISBN 0-316-12386-2.
・Mooney, Michael Macdonald. The Hindenburg. New York: Dodd, Mead & Company, 1972. ISBN 0-396-06502-3.
・National Geographic. Hindenburg's Fiery Secret (DVD). Washington, DC: National Geographic Video, 2000.

外部リンク

・Photographs of interior and exterior of LZ-129 Hindenburg
https://www.airships.net/

・eZEP.de — ツェッペリン飛行船の郵便および記念品のページ
https://www.ocean-note.com/SHOP/DA-V3025.html(代わりに貼っておきます。)

・Hindenburg: Sky Cruise. Illustrated account of a flight on the Hindenburg - with maiden voyage and final flight passenger lists
https://www.garemaritime.com/hindenburg/


・Page at Great Zeppelins website, with various pictures
https://books.google.co.jp/books?id=OBp7CgAAQBAJ&pg=PA11&lpg=PA11&dq=Page+at+Great+Zeppelins+website,+with+various+pictures&source=bl&ots=CdijqmkXJh&sig=ACfU3U2F0OJ6KZN-GLSeN5GfsEj2Ls-nAg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjFvMyxs5TpAhUbyYsBHXfbCPoQ6AEwAnoECAcQAQ#v=onepage&q=Page%20at%20Great%20Zeppelins%20website%2C%20with%20various%20pictures&f=false(代わりに貼っておきます。)
・Harold G. Dick Airship Collection (Harold G. Dick was an American engineer who flew on most Hindenburg flights.)
http://specialcollections.wichita.edu/collections/ms/99-01/99-1-a.html

・The Hindenburg at Navy Lakehurst Historical Society
https://www.nlhs.com/

Navy Lakehurst Historical Society - Home | Facebook
https://www.facebook.com/NavyLakehurstHS/

​Navy Lakehurst Historical Society: Preserving the rich ...
https://www.popularpatch.com/blog/navy-lakehurst-historical-society-preserving-the-rich-airship-history-in-america/


LZ 129 (飛行船)について、こちらを参照しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/LZ_129_(%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%88%B9)


パート2に続きます。