譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

392〜396頁


離世間品(四)

 仏子よ、菩薩大士は十種の金剛のごとき大乗の誓願心をおこす。
 十種とは何んであるか?
 仏子よ、菩薩大士はかく思う「一切の諸法は辺際を超え、窮め尽すことが出来ない、自分はまさに三世を尽す智慧をもって皆ことごとく覚了して余りあること無からしめよう」と。これが第一の金剛のごとき大乗の誓願心である。
 菩薩大士は又かく思う「一毛端のところに無量無辺の衆生がいる、まして一切の法界に於(お)いてをや、自分はまさに無上涅槃をもって皆ことごとく滅度せしめよう」と。これが第二の金剛のごとき大乗の誓願心である。
 菩薩大士は又かく思う「十方世界は無量・無辺であって斉限がなく窮め尽すことが出来ない、自分はまさに諸仏国土の最上の荘厳をもって其等の国土を皆こととく荘厳し、あらゆる荘厳をして皆ことごとく真実ならしめよう」と。これが第三の金剛のごとき大乗の誓願心である。
 菩薩大士は又かく思う「一切衆生は無量・無辺であって斉限がなく窮め尽すことが出来ない、自分はまさに一切の善根をもって彼等に回向し、無上智の光をもって彼等を照護しよう」と。これが第四の金剛のごとき大乗の誓願心である。
 菩薩大士は又かく思う「一切諸仏は無量・無辺であって斉限がなく窮め尽すことが出来ない、自分はまさに種(う)うる所の善根をもって回向し供養して欠くる所なく行渡らしめ、然るのちに無上正等のさとりを成就しよう」と。これが第五の金剛のごとき大乗の誓願心である。
 仏子よ、菩薩大士は一切のほとけを拝みまつって所説の法を聞き、心おおいに歓び、自身にも著しなければ仏身にも著しないで、如来の身は実にあらず虚にあらず、有にあらず無にあらず、性にあらず無性にあらず、色にあらず無色にあらず、相にあらず無相にあらず、生にあらず滅にあらず、実に有とする所なく而もまた有を裏切らないと解了する。何となれば一切の性相をもって取著すべからざるが故である。これを第六の金剛のごとき大乗の誓願心とする。
 仏子よ、菩薩大士は衆生あって罵詈し、讒謗し、殴打し、撲傷し、或いは手足を截り、或いは耳鼻を割き、或いはその目を刳り、或いはその頭を斬るも、総てこのような迫害を皆よく忍受し、これがために遂に憤怒のこころを生ずることなく、無量の劫に菩薩の行を修め、衆生を摂受して恒に魔捨しない。何となれば菩薩大士はすでに不二の法に住して動乱をはなれ、よく自身を捨てて一切の苦に堪えるからである。これを第七の金剛のごとき大乗の誓願心とする。
 仏子よ、菩薩大士は又かく思う「未来の世は無量・無辺であって斉限がなく窮め尽すことが出来ない、自分はまさに未来の果てまで一世界において菩薩の道を修めて衆生を教化しよう、一世界に於ける如く法界・虚空界の世界に於いても亦同様にしよう」と。かように思って而(しか)も驚かず、怖じず、畏れない。何となれば菩薩の道は法として然るべきであり、一切衆生のための修行であるが故である。これを第八の金剛のごとき大乗の誓願心とする。
 仏子よ、菩薩大士は又かく思う「無上正等のさとりは心を本とする、心が清浄であるならば則ちよく一切の善根を円満し、仏のさとりに於いて必ず自由を得べく、無上正等のさとりを成就しようと思うならば、意のままに成就することが出来るだろう。自分がもし一切の所縁を断除してひたすら道に住しようとするならばそれの出来ない自分ではない。だが、自分は敢て断除しないだろう。自分は仏のさとりを究竟せんがために敢て無上のさとりを証ろうしないだろう。何となれば本願を満足せんがためであり、すなはち一切の世界を尽くして菩薩の行を修め、因って以って一切衆生を教化せんがためである」と。これを第九の金剛のごとき大乗の誓願心とする。
 仏子よ、菩薩大士は仏の不可得なるを、菩提の不可得なるを、菩薩の不可得なるを、一切法の不可得なるを、衆生の不可得なるを、心の不可得なるを、行の不可得なるを、過去の不可得なるを、未来の不可得なるを、現在の不可得なるを、あらゆる世間の不可得なるを、有為・無為の不可得なるを知る。菩薩はそれゆえに寂静に住し、甚深に住し、寂滅に住し、無諍に住し、不可得に住し、無二に住し、無等に住し、真実に住し、成就に住し、解脱に住し、涅槃に住し、実際に住する。とは言え、菩薩は一切の大願を捨てず、一切の智心をおこすことを捨てず、菩薩の行を修することを捨てず、衆生を教化することを捨てず、諸仏を恭敬し供養することを捨てず、法を説くことを捨てず、あらゆる世界を荘厳することを捨てない。何となれば菩薩大士は大願を出生するからである。それゆえに菩薩大士は一切の法相に了達すといえども、大慈悲の心うたたますます増大して、無量の功徳を皆つぶさに修め、もろもろの衆生を摂取して未だかつて捨離しない。思うよう「一切諸法はみな無実であるのを、凡夫は愚迷のゆえに知らず覚らない。自分はよろしく彼等を開悟せしめて、諸法の性を分明に照了せしめよう。一切諸仏は寂滅に安住したもうと雖も、大悲心をもってもろもろの世間において説法し教化してかつて休息したまわぬ。自分はいま何(ど)うして大悲を捨てられよう。況(いわ)んや先きに広大の誓願心をおこした自分である。決定して一切衆生を利益する心をおこした自分である。あらゆる善根を積集する心をおこし、善巧の回向(えこう)に安住する心をおこし、甚深の智慧を出生する心をおこし、一切衆生を含受する心をおこし、一切衆生において平等の心をおこし、真実の語と虚偽を離れた言葉とを語って、一切衆生に無上の大法を与えようと願い、一切諸仏の種性を断絶せざらしめようと願った自分である。しかも一切衆生はいまだ解脱を得ず、いまだ正覚を成就せず、いまだ仏法を具足するに至らない、すなわち自分の大願はいまだ満足しないのに、何(ど)うして大悲を捨離してよいものか」と。これを第十の金剛のごとき大乗の誓願心とする。
 仏子よ、これが菩薩大士のおこす十種の金剛のごとき大乗の誓願心である。もし菩薩大士がこの法に安住するならば、すなわち一切諸仏の此上なき金剛智明を得るだろう。

(旧字体、旧仮名遣いは改めました)