譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

388〜391頁

仏子よ、菩薩大士に十種の宝住があって無上最正のさとりを成就する。
十種とは何んであるか?
菩薩大士は無量・無数の世界のあらゆる如来のみもとに詣でて恭敬し、礼拝し、親近し、供養する。これを第一の宝住とする。
菩薩大士は不可思議のもろもろの如来のみもとに於いて法を聞いて受持し、正念して忘失せず、智慧をもって分別し、覚慧を増大して十方に充満する。これを第二の宝住とする。
菩薩大士はこの土を離れないで而(しか)も他国に受生を示現し、法において迷惑するところがない。これを第三の宝住とする。
菩薩大士は一法から一切法を出生することを知って、よく各々において分別して演説する。一切法の種々の義は究竟して皆(み)な一義を出でないからである。これを第四の宝住とする。
菩薩大士は煩悩を厭離することを知り、煩悩を止息することを知り、煩悩を防護することを知り、煩悩を断除することを知り、菩薩の行を修めて実際を証せず、究竟して実際の彼岸にいたり、よく学びて巧妙の方便を成就し、本願を成満して疲厭を生ずることがない。これを第五の宝住とする。
菩薩大士は一切衆生の心に分別する所にすべて依処のないことを知って、而(しか)もまた種々の方処の存することを説き、分別もなく造作する所もないけれど、一切衆生を訓練せんと欲するがために而も修行し所作を現ずる。これを第六の宝住とする。
菩薩大士は一切の法は同一の性――無性であって、種々の性なく、無量の性なく、算数すべき性なく、称量すべき性なく、無色であり、無相であり、一もしくは多みな不可得であると知りながら、しかも決定的に此(これ)はこれ諸仏の法、此はこれ菩薩の法、此はこれ縁覚の法、此はこれ声聞の法、此はこれ凡夫の法、此はこれ不善の法、此はこれ世間の法、此はこれ出世間の法、此はこれ過失の法、此はこれ無過失の法、此はこれ有漏の法、此はこれ無漏の法、乃至(ないし)、此はこれ有為の法、此はこれ無為の法であると了知する。これを第七の宝住とする。
菩薩大士は仏は不可得であり、菩薩は不可得であり、衆生は不可得であると了知しながら、しかも本願を棄てないで一切衆生を教化し、無上道を成就せしめる。何んとなれば、菩薩の善根を修めるのは、一切をして無上道を成就せしめんがためであり、それゆえによく衆生の善根を知り、よく衆生の境界を知り、よく衆生を教化することを知り、よく一切衆生の涅槃を知って菩薩の行を修め、一切の大願を成満しようと欲するからである。これを第八の宝住とする。
菩薩大士はその応ずる所にしたがって善巧に法を説いてこれを訓練し、巧妙の方便をもって涅槃を示現し、それは真実であって虚妄でなく、また顛倒でないことを知る。しかも三世の菩薩の正法に安住し、如々(にょにょ)を離れず、実際に住せず、また衆生を見ず、衆生の既に化を受け、現に化を受け、当に化を受くべきを見ない。自分の所行の虚妄でないことを解り、乃至(ないし)、一法として求め得るものの無いことを知る。生もなければ滅もないから。しかも菩薩の所願を皆ことごとく虚しくせしめないで、而もまた依止するところがない。これを第九の宝住とする。
菩薩大士は不可思議無量の諸仏――各々その名号を異にし、劫数も同じくない――の一々の仏のみもとに於いて、不可称不可説の授記の法を聞き、一劫より不可称不可説の劫に至るまで、常にかくの如く聞き、聞いて修行し、驚かず、怖れず、迷わず、惑わない。何んとなれば、如来の智慧の不思議なるを知るから。如来の授記の言葉の無二なるを知るから。彼れ自身の行・願のちからが殊勝であるから。化すべき所にしたがい無上最正のさとりを成就せしめて法界に等しい一切の願を満足するから。これを第十の宝住とする。
仏子よ、これが菩薩大士の無上最正のさとりを成就する十種の宝住である。
もし菩薩大士がこの法に安住するならば、すなわち一切諸仏の無上最正のさとりの大智慧を得るだろう。