譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

381〜384頁

仏子よ、菩薩大士に無上最正のさとりを決定する十種の須弥山王のごとき正直心がある。
十種とは何んであるか?
菩薩大士はつねに正念に一切智の法を修める。これを第一の正直心とする。
菩薩大士は一切の法は空であり、一切の法は所有なしと悟る。これを第二の正直心とする。
菩薩大士は無量・無数の劫に菩薩の行を行じ、一切の具足せる白浄の法をもつて発心(ほつしん)し、決定して如来の無量智の法を了知し、もろもろの白浄の法を趣向し積集する。これを第三の正直心とする。
菩薩大士はあらゆる仏法のために等心にもろもろの善知識を恭敬し供養し、疑心をおこさず、利養をもとめず、また盗心を遠離し、ひとえに此上なき恭敬・供養・一切施の心をおこす。これを第四の正直心とする。
菩薩大士はもし衆生あって罵辱毀謗し、殴打撲擲してその形体を苦しめ、乃至(ないし)、一命を断たんとするとも、忍んで能(よ)くこれを受けて、これがために動乱のこころを生ぜず、瞋害のおもいを起さず、大悲の本願を放捨せず、反ってこれを増長する。何んとなれば菩薩大士は一切法において実のごとく出離して捨を成競せるが故であり、一切もろもろの如来の法を証得してすでに忍辱柔和に自在を得ているからである。これを第五の正直心とする。
菩薩大士は増上の功徳――天増上の功徳・人増上の功徳・色増上の功徳・力増上の功徳・眷族増上の功徳・欲増上の功徳、王法増上の功徳・自在増上の功徳・智慧増上の功徳を成就し、このような功徳を成就すといえども、これに於いてついに染著を生せず、味楽に著せず、欲楽に著せず、財楽に著せず、眷族楽に著せず、ただ深く法をねがい、法に随って去り、法に随って住し、法に随って趣向し、法に随って究竟し、法をもって所依とし、法をもって救いとし、法をもって所帰とし、法をもって舎宅とし、法を守護し、法を愛楽し、法を希求し、法を思惟する。菩薩大士はつぶさに種々の法楽を受けるけれども、つねに衆魔の境界を遠離する。何となれば菩薩大士はかつて過去の世に「自分はまさに一切衆生をして皆ことごとく永えに衆魔の境界を離れて、ほとけの境界に住せしめよう」との心をおこしたからである。これを第六の正直心とする。
菩薩大士は勤めて精進して無上最正のさとりを求め、無数の劫に菩薩の行を修め、つねに始めて菩提心を発せるが如きおもいに住し、驚かず、怖じず、畏れずして菩薩の行を行じ、速かに正覚を成ずることを得るも、衆生を教化せんがための故に、無量の劫に菩薩の行を修める。これを第七の正直心とする。
菩薩大士は一切衆生の訓練しがたく、済度しがたく、恩を知らず、恩に報ゆることを知らざるを知り、それ故に衆生のために大誓願をおこして、彼等をして身心の無礙自由をえしめんと欲し、悪業を捨離して、他所においてもろもろの煩悩を生じない。これを第八の正直心とする。
菩薩大士はかく念ずる「自分は他に依って菩提心をおこし、菩薩の行を修めず、すべて人の助を待つことなく、自分自身の力によって菩薩の行を修めよう。ただ身一つに依って未来の果てまで菩薩の苦行を修め、あらゆる諸仏の正法を積集して、無上最正のさとりを成就し、みずから清浄となり、また一切衆生を清浄ならしめ、自の境界を知るとともに他の境界を知り、ことごとく三世の諸仏とその境界を同じくしよう」と。これを第九の正直心とする。
菩薩大士はかく智見する「およそ一法として菩薩の行を修するものあることなく、一法として菩薩の行を成ずるものあることなく、一法として衆生を教化し訓練するものあることなく、一法として一切諸仏を供養し恭敬するものあることなく、一法として無上最正のさとりを既に成じ・今成じ・まさに成すべきものあることなく、一法として既に説き、現に説き、当に説くべきものあることなく、法を説く者と説かるる法とはともに不可得である。而(しか)もまた無上最正のさとりへの願いを捨てない。何んとなれば、菩薩は一切法の所詮はみな無所得なるを究め、それに由って無上最正のさとりを生ずるからである。それゆえに法の無所得なるを知るといえども、勤めて増上の善業を修習し、清浄に対治して智慧円満し、念々に増長して一切を具足する。もし一切の法がすべて寂滅であるならば、自分は如何なる義によってか無上道を求めよう。このゆえに恐怖・驚畏のこころを生じない」と。これを第十の正直心とする。
仏子よ、これが菩薩大士の無上最正のさとりを決定する十種の須弥山のごとき正直心である。
もし菩薩大士がこの心に安住するならば、すなわち一切諸仏の此上なき智慧の須弥山のごとき正直心を得るだろう。

(旧字体、旧仮名遣いは改めました)