譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

313〜314頁


そのとき普賢菩薩がほとけの神力を承(う)けて、一切もろもろの菩薩のむれを観察し、重ねて如来性起の正法を明したいとおもい、如来の量なき功徳を説きたいとおもい、如来の正法の沮壊すべからざることを明したいとおもい、一切菩薩の無量の智慧の法明を出生したいとおもい、一切の具足せる仏法を説きたいとおもい、あらゆる群生のたぐいの心を観察したいとおもい、時を失うことなく所応にしたがって教化したいとおもい、あらゆる無量無辺の菩薩の正法を分別したいとおもい、あらゆる如来の変化自在の荘厳を顕現したいとおもい、あらゆる如来の無異の一身を明したいとおもい、あらゆる菩薩の量りなき本行を出生したいとおもって、つぎの偈文を説かれました。

『一切もろもろの如来の成就したまえるところの威儀は、世を挙げてことごとく称賛しまつるとも、よく譬を設けることが出来ない。

衆生を利益して、ことごとく開悟せしめんがために、喩(ゆ)にあらざるを喩(ゆ)とし、もって真実の義を顕現したもう。

かような微密の法は、無量劫にも聞きがたい。精進・智慧のものは、すなわち如来蔵を聞くだろう。

もしこの経を聞いて、歓喜し、恭敬するならば、彼等はすでに過去に、無量のほとけを供養しまつッたものである。

まさに知るべし、諸天はつねに彼等を讃歎し、一切もろもろの仏も、摂取してつねに守護したもう。

一切もろもろの如来は、世間・出世間にすぐれたまい、最勝はもろ人を歓喜せしめ、この経を内蔵としたもう。

この経はよく無量のあらゆる白浄の道を生む。それゆえに放逸をはなれ、一心につねに奉持するがよい。』


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)