譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

298〜299頁

仏子よ、たとえば日があらわれて世に照りわたり、円満明浄なること法界とひとしく、あらゆる世界の浄水を盛った器のなかに、その影を宿さぬと云うことはないけれども、日は「自分はあまねく一切の浄水にうつる」とは思わない。仏子よ、そのとき、もし水を盛った器が破れたならば、日は影をそのなかに宿さぬだろう。諸大士よ、どう思ふ? 影を宿さないのは、日の咎(とが)であろうか? 答えていう「いな、水器が破れたために日が映(うつ)らぬのである」と。
仏子よ、如来の智慧のまどかな浄日は、一念にあらわれて、能くことごとく一切の世界・一切の法界・一切の衆生をてらして濁りと汚れとを除き、浄らかな心の水の器に、影を宿さぬと云うことなく、つねに現じて目前に在る。ただ器のやぶれ、心の濁った衆生は、如来の法身の影を認めることが出来ない。かような衆生はまさに涅槃を見て道をうべきである。それゆえに如来は涅槃に入ることを現じたもうけれども、その実、如来は不生不滅であって、とこしなえに入滅したまわぬ。

(旧字体、旧仮名遣いは改めました)