譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

273〜274頁


そのとき普賢菩薩が重ねてこの義を明さうとして、つぎの偈文を説かれました。

『如来のこころを知らうと思ふならば、まさに最勝の智慧をさとるがよい。如来の智慧は無量であり、最勝のこころもまた同様である。

十方もろもろの世界の一切衆生のたぐひは、皆ことごとく虚空に依るけれども、虚空はなにものにも依止しない。

あらゆる法界のうちの衆生の種々さまざまな楽しみと、方便巧智の術とは、みな最勝の智慧によって起る。

一切もろもろの智慧は、ことごとく仏の智慧に依るけれども、如来最勝の智慧は、寂然として何ものにも依止しない。

声聞・縁覚道の解脱の智慧の果は、ことごとく法界から生するけれども、法界は増すこともなければ減ることもない。

最勝の智慧もまた此のごとく、よく一切智・学の智・無学の智・有無に了達する智を生する。

ほとけの無上智は、一切智を生するけれども、生するでもなく生ぜぬでもなく、皆ことごとく不増不減である。

たとえば大海の水は、あらゆる土地に浸潤する。衆生、もし善き方便をもって求むれば、処として水のえられぬと云うことはない。

大海と土地とは「自分等は衆生に水をあたえる」とは思わない。大海の水は増減することなく、方便をもって求むるものに、ことごとく之をえしめる。

かくのごとく仏の智慧の大海は、十方もろもろの世界のあらゆる群生のたぐいに、皆ことごとくよく浸潤する。

おのおの勤めて方便して、もろもろの法門を修習するならば、あらゆる修行者は、すみやかに智慧のひかりをえるだろう。


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)