譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

260〜261頁

たとえば大荘厳と名づける大龍王は、まず濃密な重雲を布き、しかしてのちに大雨を降らすこと、あるいは十日、二十日、乃至(ないし)、百千日であるけれども、雨水は等しく一味である。ただ衆生のゆえに同じくない。
究竟(くきょう)して如来の大弁の彼岸(ひがん)にいたれる十力もまた此のごとく、あるいは十の法門、乃至、百千の法門を説き、あるいは八万四千、乃至、無量の行を説きたもうけれども、如来は「自分は法界を分別する」と思いたまわぬ。
たとえば娑伽羅と名づける海龍王は、まず濃密なる重雲をおこして、あまねく四天下をおおい、隈(くま)なくただ一切のところに雨ふらして、各々ことごとく不同であるけれども、龍王のこころは平等であって、愛と憎しみとを離れている。
無上の法の龍王におわす最勝もまた此のごとく、大悲の雲を興起して、あまねく一切をおおい、道場の菩薩のために、甘露の大法を雨ふらし、その教化に応ずる所にしたがいたもうも、如来のみこころは平等である。』

(旧字体、旧仮名遣いは改めました)