譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

251〜254頁


ある衆生はまさに如来の生身の雲を拝すだろう。

ある衆生はまさに如来の神力住持の身雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の色身の雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の種々の身雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の功徳身の雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の智慧身の雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の不壊身の雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の無量身の雲を拝するだろう。

ある衆生はまさに如来の法界身の雲を拝するだろう。

仏子よ、如来はかような無辺の身雲をもって、あまねく一切の世界をおおい、その応ずる所にしたがって光明の電光を示現したもう。

ある衆生は「所として至らざるなし」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「無量無辺を照す」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「仏の微密のおしえに入る」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「明浄にあまねく照す」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「つねに照す」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「無尽蔵の陀羅尼門に入る」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「正念みだれず」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「不退の智慧」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「したがって諸趣に入る」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

ある衆生は「あまねく衆生をして諸願を満足せしむ」と名づける如来の光明の電光を拝することができる。

仏子よ、かくのごとく如来・応供・等正覚は、あまねく衆生のために如来の光明の電光を示現したまい、すでに電光を示現して、量りなきもろもろの大三昧の、震(ふる)う雷(いかづち)のごとき音声をいだしたもう。すなわち正覚三昧のいかづちの声・離垢寂静三昧のいかづちの声・一切法自在三昧のいかづちの声・金剛円満三味のいかづちの声・須弥山幢三昧のいかづちの声・海印三昧のいかづちの声・日光三昧のいかづちの声・普同衆生歓喜三昧のいかづちの声・無尽功徳蔵三昧のいかづちの声・不壊解脱阿羅漢三昧のいかづちの声をいだしたもう。

仏子よ、如来・応供・等正覚は、ほとけの身雲において、量なき種々の三昧の雷声を出したまい、すでに雷声を出して、甘露の法を説こうとするとき、まず如来大智の風輪の瑞相をあらわし、無礙の大慈悲から起って、まず一切衆生およびもろもろの菩薩の身心を柔軟にし、皆をおおいに歓喜せしめたもう。如来はかくのごとく、正法の雲・大慈悲の雲・不可思議の雲をもって、一切衆生の身心を柔軟ならしめ、然るのちに不可思議の大法の雲雨を降らしたもう。

すなわち道場に坐する一切の菩薩のためには、壊(やぶ)るべからざる法界の大法の雲雨を雨らせ、

最後身の菩薩のためには、如来の密教、菩薩の娯楽自在の大法の雲雨を雨らせ、

一生補処の菩薩のためには、清浄にあまねく照す大法の雲雨を雨らせ、

記別をえた菩薩のためには、如来の荘厳の大法の雲雨を雨らせ、

忍をえた菩薩のためには、功徳の宝と智慧との断絶しない菩薩の行の大法の雲雨を雨らせ、

向行の菩薩のためには、不退の行をもって変化門の甚深の門に入り、疲倦することなき大法の雲雨を雨らせ、

初発心の菩薩のためには、如来の大慈大悲の行を起して衆生を救護する大法の雲雨を雨らせ、

縁覚を楽むる者のためには、ふかく縁起を知って断常の二見をはなれた無壊の解脱果の法の雲雨を雨らせ、

声聞を求むる者のためには、煩悩の怨敵を降伏する智蔵の法の雲雨を雨らせ、

善根を修習し長養する衆生、および決定未決定の衆生のためには種々さまざまな歓喜法門の雲雨を雨らせたもう。

仏子よ、諸佛如来は衆生のこころに随って、かような十種の無量無辺の大法の雲雨を雨らせて法界に充満したもう。

仏子よ、如来・応供・等正覚は、そのこころ平等におわして彼・此の差別を設けたまわぬ。ただ衆生の機根が同じくないために、如来の法雨に種々の差別を生ずるのである。

仏子よ、これが如来の微妙な音声を知見する菩薩大士の第十の勝妙の行である。


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)