譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

239〜240頁


たとえば大医王はよく治療の法を知り、彼を見るものの病を除かぬと云うことはない。

命(いのち)の尽きようとする時にのぞんで念(おも)うよう、「自分の死後、もろ人は帰依するところを失うだろう、薬を身に塗り、呪術をもって身をたもち、死後も生前のように衆人のやまいを治しよう」と。

もろもろの最勝・無上の大医王もまた此のごとく、よく方便智慧をまなび、一切智を具足し、過去の量なき修行をもって、清浄の法身を示現し、見たてまつる衆生をして、ことごとく煩悩のうれいを除かしめたもう。

たとえば大海のなかの摩尼衆宝の王は、量なきもろもろの清浄微妙のひかりをはなち、そのひかりに触るるものを、皆ことごとく宝のいろと同じからしめ、これを見るものに清浄の眼を開かしめる。

最勝の宝もまた此のごとく、あまねく智慧の光明を放って、これに触るるものをして、皆ことごとく仏と色を同じうせしめ、見たてまつる衆生に、五種の浄眼をそなえ、もろもろの闇をのぞいて、如来の地に安住せしめる。

たとえば如意宝は、したがって一切のねがいを満たし、もし所願をもつものには、皆ことごとくその意を充たし、しかも宝王は「自分は世を利益した」とはおもわない。功徳の乏しいものは、この宝王を見ることが出来ぬ。

如来もまた此のごとく、求願するものを皆ことごとく満足せしめたもうけれど、しかも如来は「自分は衆生を利益した」とは思いたまわぬ。但(ただ)し悪心をいだくものは、如来のおん身を拝むことが出来ない。』


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)