譯『大方広佛華嚴經』巻下(江部鴨村 訳,昭和10年) 

228〜231頁

また次に仏子よ、日は世間を照すけれども、生れながらの盲目のものは、いまだ曾(かつ)てこれを覩(み)ない。なぜなら、彼等は肉眼を持たないから。仏子よ、生れながらの盲目のものは日を見ないけれども、しかも日のひかりに恵まれる。彼等は日光に由るがゆえに、飲食等さまざまの生活の資料をえ、寒湿をのぞき、身を調適にし、種々の病患をはなれて安穏快楽に暮すことが出来る。
如来の智慧の日の世間に現われたもうことも亦(また)かくのごとく、あらゆる邪見・破戒・無智・邪命の生れながらの盲目の徒は、未だかつて仏の智慧の日のひかりを拝まない。なぜなら、彼等は信心の眼を持たないから。
仏子よ、こうした生れながらの盲目の徒は、如来の智慧の日のひかりを拝まないとはいえ、しかも彼等もまた如来の智慧の日のひかりに恵まれ、身のあらゆる苦痛をのぞいて安楽をえ、一切の煩悩苦毒の根本を断つ。

仏子よ、如来に「あらゆる功徳のあつまり」と名づける光明がある。
また「あまねく一切を照す」と名づける光明がある。
また「汚れなく自在にあまねく照す」と名づける光明がある。
また「おおいなる妙音をいだす」と名づける光明がある。
また「あまねく一切もろもろの言語の法を照す」と名づける光明がある。
また「自在に一切のうたがいを除く」と名づける光明がある。
また「依るところなく普くてらす」と名づける光明がある。
また「智慧自在にあらゆる境界の虚妄をのぞく」と名づける光明がある。
また「もろもろの数を分別して、その応ずる所にしたがい、大いなる妙音をいだす」と名づける光明がある。
また「円満自在の音声をもって、もろもろの国土を荘厳し、ことごとく衆生をして清浄をえしめる」と名づける光明がある。
仏子よ、如来は一一の毛孔から、こうした千種の光明をはなち、五百種の光明をもってあまねく下方をてらし、五百種の光明をもってあまねく上方を照したもう。

菩薩大士はおのおのその国のもろもろの如来のみもとにおいて、それぞれこの光明を見て即時に十頭4十眼・十耳・十鼻・十舌・十身・十手・十足・十地・十智を具足する。彼等もろもろの菩薩は、菩薩の行地に由ってえたところの諸入は、皆ことごとく清浄であって、善根と一切智とを成就する。声聞・縁覚も皆ことごとく一切の煩悩をのぞき、智慧の乏しい生れながらの盲目の徒も、身体柔軟となって快楽安穏をえ、汚れをはなれて清浄に、諸根を調伏し、四念処の法を具足し成就する。
地獄・餓鬼・畜生の悪世界の衆生も、衆苦ことごとく除こりて、みな安穏なることをえ、身やぶれ命おわってのち、人・天のうちに生れる。
彼等もろもろの衆生は、どうした因縁、いかなる威神力によって、人・天としてそのような世界に来生したかと云うことを覚知しない。その生れながらの盲目の徒は、ただ「自分は梵天である、自分は梵化天である」とおもうのみ。
そのとき如来は普自在三昧に安住し、如来の八種の妙音を発して、彼等に告げたまうよう「汝等衆生は梵天でもなく、また梵化天でもない、ほとけの神力を蒙ったがために、そのような世界に生れることが出来たのである」と。そこで彼等もろもろの衆生は、むかし経たところの悪世界から今のところに来生した自分等であることを識(し)り、皆おおいに歓ぶ。すでにおおいに歓んで、おのおの優曇華雲・香雲・娯楽雲・一切衣雲・蓋雲・幢雲・末香雲・妙宝雲・獅子幢雲・半月楼閣雲・讃歎荘厳雲をもたらして如来のみもとに至り、奉納し供養したてまつる。なぜなら、彼等はほとけの神力を蒙ったことによって、智慧の眼を開くことが出来たのだから。如来はすなわち彼等もろもろの衆生に、無上等正覚の記別を授けたもう。

仏子よ、知るべし、如来の智慧の日は、生れながらの盲目の徒を利益し、善根を長養し、具足し、成就せしめたもう。仏子よ、これが如来を知見する菩薩大士の第五の勝行である。

(旧字体、旧仮名遣いは改めました)