全譯『大方広佛華嚴經』巻上(江部鴨村 訳,昭和9年) 

383〜385頁


法慧菩薩の云わるるよう、

『仏子よ、その人間の功徳は、初発心(しょほっしん)の菩薩の功徳の蔵の百分の一・千分の一・ないし不可数分の一・不可譬喩分(ふかひゆぶん)の一・不可説分の一にもおよばない。なぜなら仏子よ、あらゆる諸仏は、初めて発心するときに、十方のおのおのの十阿僧祇(あそうぎ)の世界の衆生に、あらゆる娯楽のしなを供養し、それを百劫のあいだ、ないし千億那由他劫(なゆたこう)のあいだ継続したいとおもって世に出現したもうのではない。また、そこばくの衆生に教えて五戒・十善・四禅・四無量心・四無色定(むしきじょう)・須陀洹果(しゅだおんか)・斯陀含果(しだごんか)・阿那含果(あなこんか)・阿羅漢果(あらかんか)・縁覚(えんがく)のみを浄修させんために世に出現したもうのではない。ほとけの種子(しゅじ)を断滅させたくないとおもい、それゆえに、求道心をおこしたもうのである。十方一切の世界に充満したいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。あらゆる世界の成敗をことごとく知りたいとおもい、それゆえに、求道心をおこしたもうのである。あらゆる世界のなかの衆坐のおこす浄と不浄とをことごとく知りたいとおもい、それゆえに、求道心をおこしたもうのである。あらゆる世界の自性(じしょう)の清浄であることをことごとく知りたいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。あらゆる群生(ぐんじょう)の虚妄・煩悩・習気(じっけ)をことごとく知りたいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。あらゆる衆生のここに死に、かしこに生るることをことごとく知りたいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。あらゆる衆生のもろもろの機根の方便をことごとく知りたいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。あらゆる衆生のこころ及びこころに思うところをことごとく知りたいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。三世のあらゆる衆生をことごとく分別したいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。あらゆる諸仏の平等の境界をことごとく知りたいとおもい、それゆえに求道心をおこしたもうのである。』



(旧字体、旧仮名遣いは改めました)