全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村 訳,昭和9年)
303〜305頁

八解脱(げだつ)をえてこころ自由に、一の身をもってよく無量の身となり、無量の身をもって一の身となり、虚空のなかにおいて火定(かじょう)に入る。
身の上から水を出し、身の下から火を、身の上から火を出し、身の下から水をあらわし、虚空のなかにおいて行き、住(とど)まり、坐り、臥し、一念のうちに自由自在に変現する。
かの声聞は大慈悲を具足しないから、衆生のために仏道をもとめないけれども、なおこのごとき不思議をあらわす。まして況んや大利益(だいりゃく)の菩薩の自由なはたらきに於いてをやである。
彼等は日月となって虚空にあそび、あまねく十方のもろもろの世界をてらし、あるいは河・池・井戸・泉となり、あるいは大海のあらゆる宝(たから)の器(うつわ)となる。かくのごとき類は思議しがたい。
彼等はあまねく十方のもろもろの世界にあらわれて、深く三昧と、もろもろの解脱(げだつ)とに通達する。ひとり諸仏のみがこれを証知したもう。
たとえば浄水のなかの四兵のすがたは、おのおの別異で混交することなく、刀杖剣戟等のもろもろの兵器が、一として明瞭にあらわれぬと云うことはない。
その本来の違ったかたちに随って、ことごとく水のなかに現われぬと云うことはないけれども、水はもとよりおのづから無分別である。菩薩の三昧もまたこれと等しい。
たとえば海中に妙音と名づくる神がおって、海のなかの若干種の衆生のあらゆる音声に通じ、皆のものに大いなる歓びをあたえる。
彼に貪欲・瞋恚・愚痴はあるけれども、なおよく一切の音声を弁別する。まして況んや総持の自在力を有する菩薩が、衆生を喜ばすことの出来ぬという訳はない。
たとえば弁才(べんざい)と名づくる一人の女がいる。父母が天にもとめ、これによつて生れたもので、あらゆる悪法をはなれて真実をねがい、よく衆生に弁才を得しめる。


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)