全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村 訳,昭和9年)
207〜210頁

そのとき光明は十億の世界を過ぎて、あまねく東方百億の世界・千億の世界・百千億の世界・億那由他(なゆた)の世界・百億那由他の世界・千億那由他の世界・百千億那由他の世界・量るべからざる・数うべからざる・思議すべからざる・称すべからざる・無等・無辺・無分斉・不可説の・虚空法界(こくうほうかい)に等しい一切の世界を照したまい、ないし上方も同様でありました。で、かの一一の世界のうちに、百億の閻浮提ないし百億の色究竟天、世界のあらゆる一切のものが、悉くはっきりと現われました。そしてこの世界において、ほとけが十の仏国の微塵のかずの眷族の菩薩にとりかこまれて、蓮華蔵の獅子座のうえに坐しておわすのが拝まれたように、かの一一の世界のうちの百億の閻浮提においても、それぞれ同じすがたの仏のおわすのが拝まれました。また、みな十方にそれぞれ一人づつの大菩薩がおられて、それ何れも十世界の微塵のかずの眷族の菩薩と連れだつて、仏のみもとに詣でらるるのが、ほとけの神力によって拝まれました。いわゆる文殊師利、ないし賢首等であります。これらの菩薩の出かけて来られた本国は、金色世界、ないし如実色世界でありまして、彼等はそれぞれ本国の不動智仏、ないし伏怨智仏(ふくおんちぶつ)のみもとにおいて、菩薩の行をきよらかに修められたのであります。
そのとき、あらゆる世界の文殊師利が左の偈文を説かれました。
『無量無数の劫を、ことごとく一念のうちに観察するに、来ることもなく、去ることもなく、現在もまた、とどまらない。
あらゆる生滅(しょうめつ)の法は、ことごとく真実のすがたであると知り、方便の世界を超えて、十種のちからを具足する。
比(なら)びなき大名声のほとけは、あまねく十方の国に行きわたり、とこしなえに生死の難をはなれて、あらゆる道をきわめたまい、一切もろもろの世界に、一として到りたまわぬことなく、具足してよく清浄微妙の法を敷演したもう。
あまねく衆生のたぐいのために、まごころをもって諸仏に仕えまつり、それゆえに率直に真実なる浄きむくいの世界をえ、
あらゆる法に随順して、その如実のすがたを残りなく究め、ほとけの自在力をえて、十方に示現したまわぬと云うことはない。
始めて仏を供養しまつって以来、もとめて忍辱(にんにく)の法をおさめ、よく深き三昧に入って真実の義理を観察し、
あらゆる衆生をして、ことどとく歓んで如来にこころを向けしむる。菩薩がもしこの法をおさめたならば、すみやかに仏のさとりを得るだろう。
よく十方のほとけに法をもとめ、そのこころ湛然(たんぜん)として落ちつき、ほとけを信じて退転することなく、威儀をことごとく具足し、
あらゆる有・無の法は、有(う)にもあらず、また無(む)にもあらずと了達する。此のごとく観察するものは、よく真実のほとけを拝むことが出来るだろう。
十方の境界に行きわたる量りなき浄楽のこころをもって、あらゆる国土のうちに、よく真実の義理を説きひろめ、
あらゆる迷いのなやみを除いて、もろ人を平等の法に安住させる。もしよく此のごとく衆生を教化するならば、その人は如来と等しいだろう。
如来の説かせたもう微妙の法は、凡てみなさとりの分際である。
もしよく法を拝聴して、法性をさとるならば、その人はつねにほとけを拝みうるだろう。
如来は空であって、あだかもまぼろしのごとく寂滅(じゃくめつ)におわすと見ないものは、
如来をおがむと云っても、真に拝むのでなく、さながら盲人が五色に対するようなもので、
誤って形にかかわるものは、ほとけを拝みえない、あらゆる執着をのぞいたところに真実の如来があらわれる。
衆生のくさぐさの業は、一一ことわけて知ることが出来ない、なぜなら十方内外にわたって、種々無量の別があるから。
ほとけのおん身もまたそれと等しく、あらゆる十方に遍満して、とうてい窮めつくすことが出来ない、それを窮めつくすものは大いなる導師である。
たとえば無量の国土の虚空によってとどまり、十方から来るでもなく、またあるところに去るでもなく、
世界がおこり、あるいは壊(やぶ)るるも、もとより依るところが無いように、ほとけのおん身はそれと等しく、虚空界にあまねく充ちたもう。』


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)