全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村 訳,昭和9年)

39〜41頁


世間浄眼品 (二) 

 また、釈提桓因(しゃくだいかんいん)というが居られて、三世のほとけの世に現じ、住し、滅したまうを、確実なる大智をもって念じよろこぶ法門に自由を得ておられます。普称満天は衆生の身と如来のおからだとの、もろもろの功徳のちからの清浄である法門に自由をえ、慈眼天は平等の慈悲の雲の覆いつつむ法門に自由をえ、宝光称天はつねに仏をおがみ、一切世間の主のまえに、種々の相(すがた)、威徳のからだを現ずる法門に自由をえ、楽喜髻天(ぎょうきけいてん)は衆生の業のむくいを観ずる法門に自由をえ、楽念浄天は諸仏の国土・清浄の法を具足する法門に自由をえ、須彌勝音天は世間の生滅(しょうめつ)を観ずる法門に自由をえ、念地慧天は当来の菩薩の、衆生を調伏する行を憶念する法門に自由をえ、浄華光天はあらゆる天の娯楽の法門に自由をえ、慧日眼天(えにちげんてん)はもろもろの天界の教化に善根を流通する法門に自由を得ておられます。
そのとき、釈提桓因(しゃくだいかいん)がほとけの不思議なおちからに催されて、あまねく三十三天の群衆を観察し、次の偈文(げもん)を説かれました。
『もし、あらゆる三世のほとけを念じ、ひろく仏の境界を観察したならば、ほとけの神力によって、諸仏の国土の成敗のことを、みな悉く拝することが出来よう。
仏身は清浄にして十方に満ち、微妙の相好は無比にして一切に応じ、光明の照曜もっとも特殊におわす。名声を具足せるものはかくのごとく見たてまつる。もと方便大慈悲の海をおさめ、あらゆるもろもろの衆生に充満して、悉くよく一切のもろ人を調伏したまう。清浄(しょうじょう)のまなこの開けたものは、極まりなく之を拝むことが出来る。
ほとけの無量の功徳を念ずるがゆえに、広大の歓喜心を生ずることができる。世間に如来と等しいものはない。離垢称王(りくしょうおう)の住する法門である。
清浄なる業(ごう)の海に充ち満てる衆生を、ことごとく見そなわして余りあることなく、種種の因をもって深広の福をおこしたまう。かくのごとく善く見ることあだかも満月のよう。
諸仏充満して十方に周遍したまえるを、あらゆる衆生、これを拝みまつらぬはなく、すでに拝みまつることが出来て、ことごとく帰伏し、みな無上方便のおもいを得る。
如来智身の明浄のお眼は、十方あらゆる国土にゆきわたり、衆生をしてことごとく之をおがましめ、微妙の音声をもって法を説きたまうに、衆生これを理解せぬということはない。
ほとけ一の毛孔にもろもろの行をあらわしたまうを、菩薩これを拝して、つぶさに習いおさめ、無量の徳を具足し成就する。かくのごとき善慧はあだかも満月のよう。
あらゆる衆生の得るよろこびは、みな如来の神力(じんりき)によって生ぜしめられる。如来の無量の功徳のゆえに。これを無垢の雑華門と名づける。
もし暫(しば)しの間でも如来を念ずるならば、乃至、一おもいの功徳のちからですら、永くもろもろの悪世界をとおく離れることを得しめ、その智慧の日のひかりは、愚痴の暗をほろぼすだろう。』