全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村 訳,昭和9年)

28〜31頁


 また、自在天王というが居られて、無量の衆生の群を教化することに自由を得ておられます。善眼光天(ぜんげんこうてん)はもろもろの衆生に、最上のたのしみを得さす法門に自由をえ、雑宝冠天(ぞうほうかんてん)は衆生の無量な性と欲望とをさとる法門に自由をえ、精進善慧天(じょうじんぜんえてん)は衆生に義理を理解さす法門に自由をえ、勇妙雑音天(ゆうみょうぞうおんてん)はもろもろの衆生を慈念し、観察する法門に自由をえ、光明楽幢天(こうみょうぎょうどうてん)はもろもろの衆生をして、魔事を超出さす法門に自由をえ、浄境界天(じょうきょうがいてん)はもろもろの衆生を念化する法門に自由をえ、雑色輪天(ぞうしきりんてん)は十方の諸仏を念じて充満する法門に自由をえ、智華妙光天(ちけみょうこうてん)はほとけの功徳自在に、衆生の心念にしたがって、あまねく悟(さとり)を成就する法門に自由をえ、大力光天は世間の境界をはなるる法門に自由を得て居られます。
 そのとき、自在天王はほとけの不思議なおちからに催されて、ひろくあらゆる自在天の群集を観察し、左の偈を説かれました。
『如来の法身は法界とひとしく、ひろく衆生に応じてことごとく対現したまう。
如来法王は諸法に随順してすべて調伏して衆生を教化して下さる。
世間のあらゆる上妙の楽しみのうちで、最もすぐれたものは聖者の寂滅の楽しみである。汚れなき妙法は如来の室。清浄のすぐれた眼は実のごとく見たてまつる。
如来あまねくあらゆる世間を照して、疑地(ぎち)の枯林に法雨を降らしたまうに、衆生うるほいを蒙りて疑惑をのぞく。これが宝冠の旗ほこの妙法門である。
如来の演(の)べたまう一妙音は、広大の法の海を説きつくして余すことがない。ほとけは一音をもって十方に遍満せしめたまう。これを勝れた勇善の法門と名づける。
あらゆる十方諸仏の国土は、ほとけの一毛のなかに入って、なお満つるに足らない。ほとけは虚空のごとき大慈悲をもってしたまう。これを清浄なる智慧の法門と名づける。
あらゆる衆生の高ぶりは高山のごときも、ほとけ十力(りき)をもって、これを砕いて余すことがない。ほとけの慈の光明はあきらかに十方を照したまう。これを輝く旗ほこの妙法門と名づける。
衆生、ほとけを拝みえて、痴惑をのぞき、浄見と智慧とをことどとく充満し、ながく悪世界のあらゆる恐怖をはなれる。これを寂境の妙法門と名づける。
如来は毛孔からことごとく光明をはなちたまい、その応ずるところに随っておしえを聞くことを得しめ、あまねく衆生を導きて善世界におもるむかしめたまう。これをよき旗ほこの妙法門と名づける。
あらゆる十方諸仏のことを、このもろ人はひとり残らず拝むことができる。如来の法界は虚空に遍満する。これを浄(きよ)き蓮華の勝れた法門と名づける。
無量の劫海の諸仏の国土は、みなこれ最勝の智慧の境界である。如来はここにおいて高慢のこころを起したまわぬ。これが大力ある旗ほこの妙法門である。』


※疑地の枯林—無明より出発する生死なるが故に疑惑は衆生の素地にしてその素地に立つ生活の潤沢なきを枯林に喩う。

※十力—仏の有する十種の智慧のちから。

※浄見—きよき見方。正しき思想。


(旧字体、旧仮名遣いは改めました)