全譯『大方廣佛華嚴經』巻上(江部鴨村 訳,昭和9年)

序20〜22頁


  華厳経の結構

 華厳経がその結構の雄大な点において他経に冠絶していることは今更繰返すまでもないことである。今、六十華厳についてその結構の大略を述べて見よう。
 華厳経を戯曲的に見ればそれは八幕八場(七処八会)から成る一篇の大戯曲と言って可(よ)い。事実、華厳経はその構図があくまで戯曲的で、一幕ごとに場処が変わり、そこに色んな人物が上場して演説したり、歌ったり、踊ったりして見せるのである。その構図の戯曲的な点では、しかし前述のように維摩経や法華経も同様なのだが、ただ維摩経の舞台は菴羅樹園と方丈との二処に限り、法華経のそれが耆闍崛山の一処を出でないのと違い、華厳経の舞台は天界・地界にわたって実に八度びまで変化している。華厳経は戯曲としてそれだけ維摩経や法華経よりも規模が大きい訳である。
 初幕は寂滅道場会である。
 幕が切って落されると、ただちに光耀燦然たる寂滅道場の一大場面が、突如として我々の目のまえに展開する。見よ、釈尊はいま菩提樹下にあって無上の大覚を成就し給うたのである。大地は厳浄となって、もろもろの実で荘厳せられ、光明あまねく照して目も眩くばかり。菩提樹は枝葉垂布して重なる雲のごとく、そこから微妙の音楽がおもむろに流れ出て、仏陀の甚妙不可思議なちからを讃美しまつる。樹下の獅子座は大海のように広がって、妙宝の花できらびやかに飾られ、流るるひかり雲のごとく、一念のあいだに全法界に行きわたる。その菩提樹の下、その獅子座のうえに、今しも正覚をえたまえる仏陀の端然たる威容がおがまれる。
 我々はまた仏陀を囲繞している無量無辺の大衆の海を見る。普賢・普徳智光・普明獅子・普勝宝光・普徳海幢・普慧光照・乃至、光明尊徳等のもろもろの大菩薩をはじめ、仏世界の微塵の数ほどの金剛力士・道場神・龍神・地神・樹神・薬草神・穀神・河神・海神・火神・風神・虚空神・主方神・主夜神・主昼神・阿修羅王・迦留羅王・緊那羅王・摩睺羅伽王・鳩槃茶王・鬼神・月天子・日天子・三十三天・夜摩天王・兜率天王・他化自在天王・大梵・光音天・偏浄天・果実天・浄居天——その数は満天の星のごとく、その種類は大海の砂のよう。
 それらの大衆はおのおの如来の光明に浴して歓喜踊躍し、各自の眼にうつり心に映ずる如来の功徳を讃美しまつる。まず、善光海大自在天が、

如来はその御身のうちに、平等無尽の不可思議な法界の全部を抱擁して、取ることもなく、起すこともなく、永遠に寂減無為でいられるけれど、一切衆生の依りどころとならんがために世にあらはれたまう。(世間浄眼品)

等と歌いだす。つづいて楽業光明天王が、

あらゆる仏の境地は、はなはだ深くて思議しがたく、余のもろもろの衆生のたぐいで、よくそれを測り知るものがない。如来はよく無量の生類を啓発して、皆のものに歓んで無上の道をもとむる心をおこさしめたまう。(世間浄眼品)

(旧字体、旧仮名遣いは改めました)
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