
今日は、久しぶりの「彫物図柄解説」といってみましょう♪ 本日ご紹介させて頂くのは、【太平記】より「村上義光 錦の御旗奪還」です。 もう、この図柄は皆様方、ご存知の有名なお話ですよね~ 遠く昔は、大正時代の開さんをはじめ、舜さん、松田さんなどなど、平成の世でも彫られ続けている名場面のひとつです。 しかしながら、太平記の一場面とは、分っていても、天皇の御旗である錦の御旗を奪還せしめる場面というだけで、詳細をご存知の方も多くないのではないでしょうか? という事で、今日は、その場面説明と数々彫られた村上義光の中から、私の撮影した写りの良い写真をチョイスして見て頂きましょう♪
村上義光は、1331年頃、後醍醐天皇を主として起きた元弘の乱の折、笠置山が陥落し潜伏していた南都の般若寺から熊野へ逃れる護良親王に供した9名の1人でしたが、 少し遅れて随行していた。 先行していた護良親王と八人は、落ちる途中に、敵方の芋瀬庄司に遭遇し、芋瀬に、「生かす代わりに、御旗を渡せ」と言われ、親王大事とこれを聞き入れて大事な錦の御旗を芋瀬庄司に渡して、その場を逃れた。 しかし、遅れてやってきた義光も芋瀬庄司に出くわし、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「帝の御子に対して、貴様ごときがなんということを!」と、敵方に奪われた御旗を取り返し、旗を持っていた芋瀬の下人をひっつかみ、4、5丈ほどかなたに投げつけた。義光の怪力に恐れをなし芋瀬庄司は言葉を失い、義光は自ら御旗を肩に懸て親王一行を追いかけ無事に追いついたという武勇の物語です。(ウィキペディア参照)

▲トップ画像にもあるこの意匠が、彫物ではスタンダードなタイプです。


▲しかしながら、解説でもあった雑兵を今にも投げ飛ばしそうなこの怪力の場面は、珍しい意匠ですね。彫物師さんは、松田正幸師だと思われます。

▲アップです!持ち上げた雑兵の持たせ方なども難しいのではないでしょうか??すばらしいですね。。















どれもこれも名作ばかりでしたね~ 特に開さんのは・・・(笑) 往々にして、枡合などに彫られることが多いですが、写真でもお分かりのように、岸和田型の連子や上地車の見送り三枚板にも彫られている事があります。 それから、賢明な皆様は、ご存知かとは思いますが、村上義光の読み方しってました?? 「よしみつ」ではなく「よしてる」なんですが、ご存知でしたか?? 私もその昔は、てっきり「よしみつ」と読んでましたが、ある時、調べものをしている時、偶然に読み方を知りました。。 それまで、けっこう自信げに、「よしみつ!」なんて言ったいたんで、恥ずかしいな~なんて、思った事がありました。。 それでは、最後に、村上義光の最期をお話して、彫物図柄解説を終わりたいと思います。
元弘3年に、幕府方が6万余騎を率いて吉野山に攻め入りました。護良親王軍は奮戦するも、いよいよ本陣のある蔵王堂まで兵が迫った時、親王はこれまでと最後の酒宴を開いていたが、そこへ義光がやってきて親王を説得し落ち延びさせました。 義光は幕府軍を欺くため、親王の鎧を着て自ら身代わりとなって「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と叫び、切腹して自刃し、自らのはらわたを引きちぎり敵に投げつけ、太刀を口にくわえた後に、うつぶせに伏となって絶命したという壮絶な逸話が残ってます。(ウィキペディア参照)