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ちょっと、この四月に拝見した地車編集に手こずっています。。(汗)

という事で、息抜きの彫物図柄紹介と参りましょう♪

本日紹介させて頂くのは、皆様お馴染みの「秀吉本陣佐久間の乱入」で~す!

少し前に、ご紹介した「加藤清正 新納武蔵守との血戦」同様、地車の彫物好きなら誰しも知っているであろう図柄ですね!

しかし、この図柄。。地車彫刻だけではなく、淡路の壇尻や播州屋台(播州では、「佐久間玄蕃太閤本陣乗込の場」とも言われています)に至るまで、幅広く彫られている作品で、それだけ人気のある図柄だという事が、この事からもお分かり頂けると思います。

その愛されている理由のひとつとしては、加藤清正の九州征伐同様、太閤贔屓の関西エリアを考えると秀吉が天下統一を成し遂げていく中では、重要な位置づけであった天正11年の柴田勝家との戦いでの大きなターニングポイントとなった賤ヶ岳の戦いの名場面だという事が大きなところで、勇壮な祭り関係の彫物だという部分で、敵陣に決死の覚悟で、踊り込む盛政の姿が好まれたのではないでしょうか。。

それでは、いつもの如く、合戦の簡単なお話と今まで、撮ってきた写真の中から、ご覧頂きましょう♪

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信長が光秀に本能寺で、討たれた後、山崎の合戦にて、秀吉が光秀を討ち滅ぼし、迎えた天正10年、清洲会議にて、後継者を巡り、勝家と秀吉は対立してしまいます。 明けて、天正11年、双方とも折り合いがつかず、合戦へと発展して行きますが、勝家と秀吉の戦いは、双方の睨み合いから始まりましたが、賤ヶ岳の幕開けを告げる戦の中で、猛将で知られた佐久間盛政が秀吉方の中川清秀が陣取る大岩山砦まで侵入し、奇襲攻撃を加えた玄蕃でありましたが、一旦は成功したように見えましたが深追いの末、秀吉にまんまと裏をかかれ、秀吉軍に反撃され窮地に陥るのでした。 しかし、盛政も猛将に恥じぬ戦いを繰り広げるのであり、その盛政は、右手に鉄棒を引っさげ敵陣に躍り込み、群がり来る敵兵を薙ぎ倒し、秀吉本陣目指し、まっしぐらに突き進む姿は、鬼の形相であったに違いありません。。
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▲まずは、我が北村土呂幕正面より。大体、この鬼の形相で盛政が鉄棒を振りかざし、秀吉本陣に、まっしぐらに打ち込んで行く姿の意匠が多く彫られています。。自画自賛ではありませんが、この佐久間さんの感じは、黒田さんから受け継がれたような雰囲気を持っています。。
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▲岸和田型の土呂幕では、奥板に彫られている事が多い豊臣秀吉。ひと目で、秀吉と判るように秀吉のシンボルである馬藺の葉を後立てにした冑と千成瓢箪が、彫られている事が多いです。
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▲ここよりは、色々な佐久間玄蕃盛政をご覧頂きましょう♪まずは、岸和田型の土呂幕に彫られている作品です。トップバッターは、現在は個人所有となっている岸和田旧市下野町先代。
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▲貝塚市麻生中。
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▲貝塚市海塚。
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▲高石市小高石。
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▲岸和田市神須屋町。
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▲熊取町七山区。
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▲熊取町大宮区。
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▲岸和田市西之内町。
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▲岸和田市岡山町大西小路。
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▲岸和田市中井町先代。 
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▲岸和田市大手町。 
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▲岸和田市福田町。 
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▲岸和田市山下町。 
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▲貝塚市東
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▲熊取町五門区。大好きな一枚です。。
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▲これは、上地車の三枚板部分で、東大阪市横沼。
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▲同じく、三枚板で、東大阪市稲田中。
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▲三枚板の堺市鳳野田区。
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▲上が見本となった東大阪市北蛇草。
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▲これは、ちょっと珍しい岸和田型の枡合部分に彫られた作品です。淡路壇尻をたくさん手掛けられている松田正幸師には、お手のものだったと思われます。岸和田市田治米町。
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▲という事で、淡路壇尻より。
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▲お次は、屋台からです。
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▲もう一丁
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▲最後は、黒田一門初の作品だったのではないかと思われる二代目黒田正勝作。

如何でしたか?

どれもこれも鬼の形相の盛政が、良く彫られ名作ばかりでしたね。
この彫物の特徴と言えば、馬上の盛政が前のめりに金棒を振りかざし、秀吉本陣に疾風の如く、踊り込む躍動感が命ではないでしょうか!
また、周りで蹴散らされる雑兵なども、その場を盛り上げる大切なアイテムの一つだと思います。
それでは、この戦いの後の盛政の事をお話して、締めくくりたいと思います。

盛政らの猛攻で、柴田軍は何とか撤退に移ることができたもの、盛政軍の背後で陣を構えていた前田利家が兵をまとめて戦場を離脱し、これを見た金森長近、不破勝光らも戦線を離脱。これを機に柴田軍は総崩れの状態となり、毛受勝照が勝家の身代りとして奮戦している間に、勝家は北ノ庄へと落ちのび、勝家軍は北ノ庄での最後を迎える事となりました。

一方、盛政は、落ちのびる途中、土民に捕らえられました。
もはやこれまでと悟った盛政は、自ら秀吉と対面した時、浅野長政に「鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ自害しなかったのか?」と問われたが、盛政は源平合戦での石橋山の頼朝公を引き合いに出して、言い返したという事です。また、秀吉は盛政の武勇を買って九州平定後に肥後一国を与えるので家臣になれと強く誘ったが、盛政は織田信長や勝家から受けた大恩を忘れることはできず、願わくは派手な衣装を着用の上、引き回しののち刑死したいと願い、それが秀吉の権威を高めることに繋がるとも語ったといわれています。

盛政享年30才、京都宇治の槙島での事でした。。。