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壇ノ浦で、見事平氏を滅ぼした頼朝の源氏軍でしたが、今度は、その平氏追討で目覚しい活躍し、凱旋した都では、法皇の寵愛を受けだした義弟「九郎判官義経」に、矛先が向けられるのでありました。
それでは、国松君流「源平盛衰記」~第十幕~義経追討をご覧下さい。
壇ノ浦合戦の後、義経は建礼門院と守貞親王それに捕虜を連れて京へ戻り、範頼は九州に残って戦後の仕置きを行うことになりました。義経は京に凱旋し、後白河法皇はこれを賞して義経とその配下の御家人たちを任官させました。これを知った頼朝は激怒して、任官した者たちの東国への帰還を禁じる。さらに、九州に残っていた梶原景時から頼朝へ、平氏追討の戦いの最中、義経の驕慢と専横を訴える書状が届き、義経が平時忠の娘を娶ったことも知らされ、頼朝の怒りを買い、二人の仲は、険悪の度合いを増して行くのでありました。平氏が、滅亡して平和が訪れた今、折角手に入れた「武士の権利」が、再び公家たちの手に戻る事を防ぐためには、個々の武士が直接朝廷と結びついてはならないという頼朝の信条があった。その事を全く理解せず、後白河院や公家たちの評価を素直に受け入れるばかりの義経は、頼朝にとって非常に危険な存在となってしまいました。
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▲頼朝は、ついに義経との全面対決を決断し、「土佐坊昌俊」ら数十人を刺客に送るのでありました。世に言う「堀川夜討」である。はじめは、劣勢でしたが、源行家などが加勢に加わり、見事「土佐坊昌俊」を取り押さえました。この一件が頼朝の差し金であることは誰の目にも明白でありました。深く傷ついた義経は、頼朝に存念を示すために自らの手で昌俊を斬首し、さらに頼朝追討の院宣を夜討のあくる日に法皇に願い出ました。しかし、義経と行家に院宣が下されたものの、義経らとともに頼朝追討に加わる武将は一人として現れませんでした。「東大阪市柏田」
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▲そして、再起を図るため都を離れ九州へ落ちることにしました。しかし、その道中「大物之浦」から出帆した義経たちの舟は暴風雨に見舞われてことごとく難破してしまいます。この以後、義経たちの消息は一時、行方知らずになるのでした。写真は、能の「舟弁慶」のシーンであり、大物之浦で平氏の亡霊に行く手を阻まれ、弁慶が呪文を唱え亡霊たちを遠ざけている場面です。「英賀東屋台」
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▲大物之浦より、行き方知れずになった義経主従でしたが、吉野山などの山寺に匿われていた。蔵王堂に、落ち着いていた義経たちでしたが、吉野山の僧たちは義経がいると頼朝の軍勢が襲ってくると思い、義経たちを討つ事にしました。一方、義経たちは僧兵達の追撃をかわしながら大和国をめざして落ちて行くのでありました。
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▲義経のために追っ手を防ごうと義経の甲冑をまとった「佐藤忠信」は、志願した郎党数名とは、僧兵たちを散々に悩まします。その中で有名なのは、「横川覚範」との一騎打ちですね!忠信に続いて、谷を飛び越えた覚範は、足を捕られたところを忠信に、切られてしまいました。忠信らの活躍により、何とか吉野山を脱出した義経一行は、奥州をめざし、北へ落ちて行くのでありました。「熊取朝代」
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▲その後の忠信は、吉野を逃れ、都へ潜伏しますが、昔馴染みの女に密告され、不意打ちをされます。寝ていた忠信は枕にしていた碁盤を武器にして戦いますが、奮戦の甲斐なく、その場で割腹して果ててしまいました。「岸和田旧市並松町」

いよいよ、クライマックスですね。
信用していたはずの頼朝に裏切られ、どこまでも落ち延びて行く義経主従。同じ同士であった源行家親子も和泉国で殺害され、家臣の伊勢三郎も討ち取られ、静御前とも吉野で別れ別れになって、いよいよ終焉の土地である奥州をめざし、旅立つのでありました。。
次回の最終回もお楽しみに!!