
本日は、「国松流源平盛衰記」と題しまして、私は今まで拝見させて頂いた彫り物画像を見ながら、源平盛衰記をご紹介しようと思います。源平盛衰記と言いますと、個人的には、やはり「保元の乱」からやと思うのですが、「保元の乱」を題材にした彫り物を私自身まだ見ていないので、保元の乱の次に起こった繋がりのある「平治の乱」よりご紹介させて頂きたいと思います。
そして、解説させて頂く物語は、私が愛読しております「吉川英治氏」の「新・平家物語」をベースに、お話させて頂きますので、史実とは違う箇所もあるとは思いますが、ご了承頂きます様、よろしくお願い致します。それでは、はじまり、はじまり~~
時は、平安時代。。保元の乱で勝利した後白河天皇は、まもなく皇位を弱冠16歳の若き二条天皇に譲り、上皇となって院政を始めました。上皇の側近で藤原信西と藤原信頼がいましたが、特に信西は才能豊かな学者で、政治力もあり、保元の乱の恩賞等も一手にしておりました。そこで、源義朝は保元の乱の時に、後白河天皇につき、父・為義、弟・為朝を敵に回して戦い、二人を殺害したにもかかわらず、一緒に戦った平清盛の出世に比べて、信西に冷たく扱われたのに不満を持っていました。そこで義朝は、信西と対立していた信頼と手を結び、謀反を起こそうと計画しました。 そして、平治元年12月4日、清盛が「熊野詣で」のため、京を離れた隙を狙って、義朝たちは、まず後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西を殺害しました。その事を聞いた清盛は、急いで京に戻り天皇と上皇を救い出し、自身の六波羅へ天皇を迎え入れました。そこで、上皇より信頼と義朝の院宣を賜り、御所に立て篭もる義朝軍と対峙しました。 始めは、勇猛果敢な坂東武者軍団を率いる源氏方の優勢でありました。特に、紫宸殿近くで、陣を張る源氏の嫡男「悪源太源義平」と平氏の嫡男「平重盛」の死闘は雪積もる紫宸殿付近の雪を真っ赤に染める凄まじいものがあったそうです。お互いの両雄は、名乗り合い馬上での戦いが始まりましたが、義平の方は、馬上が得意とする坂東の地で、腕を磨いた来ただけあって、馬上戦では、一枚も二枚も上だったと推察されます。平氏の嫡男重盛も負けじと応戦しますが、追いかけられ、命辛々逃げたと言う事です。 と言う事で、本日の彫り物は、その源平の嫡流同士の死闘を刻んだ「天下分け目の紫宸殿の戦い」をご紹介致します。

▲馬上では、義平が一枚上でしたが、義平の挑発に平氏の嫡男としてのプライドを賭けて、望んだが、義平に追撃され、窮地に陥る重衡(板原町土呂幕)

▲馬上の上では、天下無敵の坂東武者の長、悪源太義平!(板原町土呂幕)

▲雪積る殿上の紫宸殿も血染めの雪が一面を覆い尽くしたそうです!

▲津久野西組


▲鳳北王子


▲津久野下田

▲さすが!平氏の嫡男。逃げても眼光鋭い重衡!
最終結末は、はじめ優勢だった源氏方も院宣を盾にする平氏には敵わず、形勢は逆転し最後には、源氏は、打ち破られてしまいました。
その後、鎌倉を目指して落ち延びようとした義朝と長男・義平は捕らえられ殺害され、その子・頼朝は伊豆「蛭ヶ小島」へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。その時、頼朝13才、義経は1才であった。源氏の主な人達も次々と殺され、平治の乱以降は武士の世界は平氏の世の中になっていっきました。また武士が政治の流れを決める時代になっていきました。
簡単に言えば、天皇家の親子喧嘩が世の中を戦国の世へ導く事になってしまうとは、誰も考えなかった事でしょう。それでは、今宵は、この辺りでお開きとさせて頂きます。次回をお楽しみに。。
その後、鎌倉を目指して落ち延びようとした義朝と長男・義平は捕らえられ殺害され、その子・頼朝は伊豆「蛭ヶ小島」へ流され、義経は京の鞍馬寺へ預けられた。その時、頼朝13才、義経は1才であった。源氏の主な人達も次々と殺され、平治の乱以降は武士の世界は平氏の世の中になっていっきました。また武士が政治の流れを決める時代になっていきました。
簡単に言えば、天皇家の親子喧嘩が世の中を戦国の世へ導く事になってしまうとは、誰も考えなかった事でしょう。それでは、今宵は、この辺りでお開きとさせて頂きます。次回をお楽しみに。。