東京小石川・伝通院 | Kushima Letters~串間通信~keep-peaceloveshine
春日、小石川にある、伝通院。
徳川家康公の御母堂、於大の方のお墓がここにある。



文字通り、駆けつけた🚲



墓所入り口のご由緒と注意書き。



沢山の徳川関係者や著名人が眠っていた。



まずはこちら、家康公の正妻、於大の方。



生涯をしるした掲示物。

生まれ故郷の愛知県知多郡東浦町から寄贈されたようです。



松平東照宮の産湯の御神水と、どら焼きと公演チラシをお供えして、ご挨拶。



松平広忠公に嫁ぎ、竹千代君、のちの家康公を授かったお2方。しかし、実家の水野家主となった兄の信元が、庇護を受けていた今川家から織田家に寝返ったために、今川家からの報復を恐れ、広忠公は於大の方を離縁し、水野家に戻した。


その後、久松俊勝公と再婚。3男3女を授かった。



こちらは、千姫(第二代将軍徳川秀忠公、お江との娘)。豊臣秀頼公の正室。家康公は、主君だった秀頼公に千姫を嫁がせた。



こちらは孝子の方、第三代将軍徳川家光公の正室。



家康公の側室、於奈津の方。

80歳の長命、4代将軍の家綱公の代まで生き、将軍家から大切にされた。



三代家光公の次男、亀松君。



とにかく、徳川家のみなさまの立派なお墓がたくさん並んでいました。



境内。



於大の方、久松家に嫁がれても、竹千代君との交信を絶やすことはなかった。織田家、今川家の人質となっていた竹千代君。嬉しかったろうなあ。

のちに家康公は、於大の方の久松家の男子は、松平姓を名乗ることを許し、晩年は家康公のもと、伏見城で亡くなるまで過ごした。

母君への想い。。。

竹千代は、岡崎城で生まれたのだ。