twitterで同人作家のクレハ氏がtwitterにイラストをアップしたところ、何故か大炎上することになりました。

 

 

私はこのイラストについて、別に好きでも嫌いでもないと個人的な考えを申すと共に、今回の炎上について私は、多様性の全否定であると断言します。

 

1.作者がただ描きたくて描いた

以前、「宇崎ちゃんは遊びたい!」の献血ポスターが同じような理由で炎上しましたが、それとは完全に別次元の話です。

なぜなら、今回のこのイラストは、作者がただ描きたくて描いただけのイラストだからです。作者がただ描きたくて描いただけのイラストですから、妄想の垂れ流しであっても誰かが文句を言う筋合いはないのです。描きたいものを描いて何がいけないのかということになります。ただ描きたくて描いただけのイラストまで世間の目を気にしなければならないとしたら、何も描けなくなります。

宇崎ちゃんのポスターみたいに公共の場所に掲示されているわけでもありませんから、見たくなければ見なければ良いというだけの話です。

 

 

2.多様性とは

多様性とは、自分が理解できない行動や、自分には良さがわからないことであっても、馬鹿にしたり笑ったりせず、認めることであると私は認識しています。世の中には、自分には理解できない行動や、良さがわからないことというのはいくらでもあります。

世の中には、カエルやハトを食べる人もいますし、ヘビや虫が大好きな人もいます。同性に恋愛感情を抱く人もいますし、BLや百合に興奮する人もいます。

自分には理解できないことはいくらでもあるです。そういう人に出会ったとき、馬鹿にしたり笑ったりすることは、相手の尊厳を傷つけ、多様性の全否定になります。感情は湧き上がってくるものですから、感情が湧き上がること自体は防げないものだとしても、口に出したり、文字に起こしたりすることを避けるということが、大人の対応です。

 

 

3.サイゼリヤデートはいけないことなのか

「サイゼリヤでデートしたくない」という考えは自然なことだと思いますし、多数派だと思います。私もデートでサイゼリヤを選んだことはありません。しかし、多数派だからと言って正しいとはなりません。世の中の全ての人が、自分と同じ考えを持つわけではないのです。

そう思わない人がいても良いということが多様性です。

サイゼリヤでデートすることを嫌と思わない人がいるかもしれませんし、「好きな人と食事するならどこでも良い」と思う人がいるかもしれません。「自分が嫌だから皆嫌だろう」と考えてしまうのは、多様性の全否定になります。あなたにサイゼリヤデートを強制するわけではありませんから、別に、どういう考えの人がいても良いのです。

「サイゼリヤでデートしたくない」という考えも大変立派な考えですが、それと同じように、「好きな人と食事するならどこでも良い」という考えも大変立派な考えで、そこに優劣はありません。ただ多数派か少数派かといった違いしかありません。

人の数だけ恋愛はあり、人の数だけデートがあります。そこに正解も間違いもありません。

 

 

4.多様性の全否定が行き着く先は

多様性の全否定が行き着く先は、戦争です。以下、ユネスコ憲章の条文です。

 

「戦争は人の心の中で生れるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。

相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信をおこした共通の原因であり、この疑惑と不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。

ここに終りを告げた恐るべき大戦争は、人間の尊厳・平等・相互の尊重という民主主義の原理を否認し、これらの原理の代りに、無知と偏見を通じて人間と人種の不平等という教義をひろめることによって可能にされた戦争であった。

文化の広い普及と正義・自由・平和のための人類の教育とは、人間の尊厳に欠くことのできないものであり、且つすべての国民が相互の援助及び相互の関心の精神をもって果さなければならない神聖な義務である。」

 

つまり、他人の尊厳や生活、文化などを否定することが戦争の始まりであると謡っています。

自分が理解できない文化や風習などをやれと言うのではありません。「こういう人もいるんだな」と理解を示す、見下さない、馬鹿にしない、笑わないということが大切です。

 

この手の話、普段は傍観するのですが、今回はあまりにも多様性から逸脱しすぎており、見過ごせなかったため、意見を書きました。

もちろん、私の考えを押し付けるようなことは致しません。この記事を読んで何を考えるかは、あなた次第です。