「ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観」感想 | S blog  -えすぶろ-

S blog  -えすぶろ-

-人は年をとるから走るのをやめるのではない、走るのをやめるから年をとるのだ- 『BORN TO RUN』より
走りながら考える ランニング・読書のブログ

 

 

アマゾン奥地で他の文化を一切受け入れず幸せに暮らすピダハン。そんな彼らの魅力的な言動を詳細に描きつつ、キリスト教伝道のためにピダハンと生活を共にした言語学者でもある著者が、彼らの生き様・価値観・世界観にすっかり魅了され、遂には自分がキリスト教を棄教してしまうという事態にまで至る話です。

 

わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた。

わたしは信仰というものの本質を、目に見えないものを信じるという行為を、真剣に問い直しはじめていた。聖書やコーランのような聖典は、抽象的で、直感的には信じることのできない死後の生や処女懐胎、天使、奇跡などなどを信仰することを称えている。ところが直接体験と実証に重きをおくピダハンの価値観に照らすと、どれもがかなりいかがわしい。彼らが信じるのは、幻想や奇跡ではなく、環境の産物である精霊、ごく正常な範囲のさまざまな行為をする生き物たちだ。ピダハンには罪の観念はないし、人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないという必要性ももち合わせていない。おおよそ物事はあるがままに受け入れられる。死への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。

 

ピダハンに出会いわたしは、長い間当然と思い、依拠してきた真実に疑問をもつようになった。信仰心を疑い、ピダハンと共に生活していくうちに、わたしはもっと深甚な疑問、現代生活のもっと基本の部分にある、真実そのものの概念も問い直しはじめるようになっていた。というより、わたしは自分が幻想のもとに生きていること、つまり真実という幻想のもとに生きていると思うに至ったのだ。神と真実はコインの表裏だ。人生も魂の安息も、神と真実によって妨げられるのだ--ピダハンが正しいとすれば。ピダハンの精神生活がとても充実していて、幸福で満ち足りた生活を送っていることを見れば、彼らの価値観がひじょうに優れていることのひとつの例証足りうるだろう。

 

ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。

 

西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしていると言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか。こちらの見方が正しいとすれば、ピダハンこそ洗練された人々だ。こじつけがましく聞こえるだろうか。どうか考えてみてほしい--畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知をきわめているかを。

ピダハンは、自分たちの生存にとって有用なものを選び取り、文化を築いてきた。自分たちが知らないことは心配しないし、心配できるとも考えず、あるいは未知のことをすべて知り得るとも思わない。その延長で、彼らは他者の知識や回答を欲しがらない。

 

過去を振り返らず(部族の神話・歴史すら語られていない)、明日を心配せず備蓄もせず(狩猟採集してきた食べ物はすぐに残さず食べる)、今日一日を楽しみ尽くす。身分の差も無く社会的強制がほぼ無い(親が子供を叱ることさえない)。現実だけ(彼らには見え感じられている精霊も含む)を重視するので抽象的な言葉もなく(例えば左右という概念も無く、川の上流側か下流側かで位置を伝え合う)・・・

敬虔なキリスト教伝道師の考え方を180度変えてしまったピダハンの価値観と生き方の強烈な魅力を著者と一緒になって驚きつつ存分に味わえます。

ピダハンは、これまで読んだ本に出てきた様々な部族の中でも、最もプリミティブな社会形態を維持できている部族だと感じることもできて、今読み進めている中沢新一「カイエ・ソバージュ」に出てくる「対称性社会」を目の当たりにできたという感じでした。このタイミングで読んでおいて本当によかった!

文化人類学好きにはかなりのお薦め本です。

 

関連記事

中沢新一「熊から王へ カイエ・ソバージュ(2)」感想 

「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」感想