8/7月に『ぼくが子どものころ戦争があった』(ロクリン社)という絵本が発売されて、当ブログ主も購入した。
この絵本は、奈良県在住の田中幹夫弁護士(大阪弁護士会)が2015年に自費出版した自伝的小説『いくさの少年期 1941~1945』(文芸社)がベースになっている。
田中さんの原作をもとに、奈良在住の作家の寮美千子さんが文を書き、北海道在住の画家の真野正美さんが絵をつけた。
紙芝居「いくさの少年期」出版計画
言い出しっぺの寮美千子です。奈良在住の作家です。
奈良公園内の高級ホテル建設反対裁判の弁護委員長をなさった田中弁護士と、同裁判闘争を通じて知り合いました。その後、大和郡山市の金魚電話ボックス著作権裁判、同住民訴訟でたいへんお世話になり、どちらも大阪高裁で逆転勝訴の勝ち取ることができました。大変恩義に感じておりますが、田中弁護士は「正義のための裁判だから」と弁護料をお受け取りになりません。なにか別の形でお礼をと考え、先生の著書の紙芝居化を思いつきました。先生の著作は、まさにこの時代に必要なものであるの思いもありました。
当初は、無償ボランティア仕事として、ささやかに上演することを考え、作画をアマチュアの方に打診したのですが、32枚もの絵を短期間に描くとなるとむずかしく、また内容も高度なため、画家選びは難航しました。田中先生が90歳とご高齢なので、なるべく早く完成させたいとも願っていました。
思い余って、帯広在住の画家・真野正美さんに相談しました。真野さんは、「六花亭」の月刊誌「サイロ」の表紙を14年間も描き続け、中札内美術村に「真野正美作品館」もあるプロ中のプロの画家さんです。関係と言えば、わたしの著作を読んで下さったというメッセージをいただいて、Facebookでつながり、一度、絵本制作に関してアドバイスさせていただいたことがあったというだけの方。このような悪い条件でお願いしていいような方ではないと重々わかってはいましたが、田中先生への思いも強く、とうとうダメモトでご迷惑も顧みず、お声を掛けさせていただきました。
真野さんはこんな途方もない話を受けとめて下さったのです。しかし、制作期間の短さと仕事の膨大さ、歴史考証の必要などがネックで、かなり悩まれました。しかし、資料集めは寮美千子と上田龍男が行い、画風はざっくりしたスケッチのようなもので構わない、ということで、なんと「寮さんの仕事に賛同し、田中先生のご活動に感動。このプロジェクトに意義を感じるから」からと、無償でお引き受けいただいたのです。無償ではあまりにも申しわけないので,制作費として計上できるような体制を作っていきたい、とわたしは願っています。真野さんは、必要ないとおっしゃってくださいますが。
5月17日にいきなり表紙の一枚が仕上がり、お話ししたよりもずっと緻密な作風なので、これでは手間が掛りすぎると心配になりましたが、真野さんは、次から次に、すばらしい作品を仕上げてくださいました。わたしと松永洋介は帯広にお伺いして、初めて真野さんにお目にかかり、さらに細かい打ち合わせをすることができました。そして8月1日、最後の一枚が仕上がってきたのです。わずか2カ月半、77日間で32点もの作品を、しかもこれだけのグレードで描きあげてくださったことに、なんと感謝していいのか、わかりません。まったく、真野さんでなくてはなしえなかった偉業です。
ささやかに仲間内で上演できれば、ということで始めたプロジェクトでしたが、真野さんの絵を見て、それではとてもすまない、と思うようになりました。これはぜひ世に出さなければいけない作品、いま日本が必要としている作品です。戦争への足音が露骨に響いてくる今日、少年の目を通して描かれた戦争の愚かさ、悲惨さ。何でもない日常がみるみる様相を変えていくことの恐ろしさを、ぜひ多くの方に知っていただきたいと思います。これを、子どもたち、そして戦争を知らない大人たちに伝えることは、大きな意義のあることと確信しております。
どうか、ご協力の程、よろしくお願い申し上げます。
2024年01月16日
有村 とく子
原作は田中幹夫先生の自伝的小説
弁護士登録して間もない頃、大阪弁護士会の人権擁護委員会に所属していた私は、人権救済申立事件の調査を担当したことがきっかけで、調査委員会の主査を務める田中幹夫先生に出会いました。田中先生は、当時、障害者虐待のサン・グループ事件(注i)の弁護団長をされていて、同事件の国家賠償訴訟弁護団へお声かけをいただきました。この裁判は、平成15年に大津地裁で画期的な勝訴判決が出ました。法廷で判決主文を聞いたときの感動は忘れられません。
田中先生がお書きになる訴状や準備書面の文章はみな格調が高く、このような書面を編み出せる弁護士になりたいと憧れの気持ちを抱いてきました。
先生は、2015年12月8日に『いくさの少年期 1941~1945』(文芸社)という自伝的小説を出版されていました。田中先生は、小学4年から中学1年のときに太平洋戦争を体験されていたのです。少年時代に戦争を経験されていたことを私は知りませんでしたし、直接お話を伺う機会もなく、頂戴したご本も、実は「積ん読」になっていました(すみません!)。
出版から8年の時を経て、この本をもとに、奈良在住の作家・寮美千子さんが脚本を書き、画家の真野正美さんが30数枚の絵を描いて、紙芝居ができました。昨年10月、原作者の田中幹夫先生を囲んで、そのお披露目会が開かれました。サン・グループ事件弁護団のメンバーにも案内があり、私も参加して紙芝居の実演を見せていただきました。
長く広く受け継がれていくように
「みなさんは、日本が戦争をしていたことを知っていますか。これは、田中幹夫さんという弁護士さんが子どもだった頃のほんとうのお話です。」
こんな語りから始まる紙芝居、耳にわかりやすい言葉が人の肉声でこの身に届き、描かれている1枚1枚の絵の美しさに引き込まれていきます。やさしく、力強く、お話が進むにつれて迫力が増して行き、胸に迫ります。
私は、今こそ、田中先生の「いくさの少年期」が、紙芝居という芸術作品としても、この先ずっと長く、広く受け継がれていって欲しいと思います。寮さんを中心に、紙芝居「いくさの少年期」出版計画という名で、この紙芝居を日本全国に広めるプロジェクトが立ち上げられています。カンパの募集も始まっています。インターネットで検索するとプロジェクトの進捗を知ることができますし、紙芝居の脚本と絵をFacebookで見ることもできます。関心のある方は是非そちらへアクセスしてください。田中先生は90歳になられています。
第二次世界大戦のころの戦争体験をつづった絵本を手にしたということもあるので、児童文学者の方々が自身の戦争体験を語ったものを集めた本も二冊、図書館から借りてきた。
1974年初版『子どものころせんそうがあった』(あかね書房)
2015年初版『わたしが子どものころ戦争があった』(野上暁編 理論社)