フェイスブックからManabu Watanabeさんの投稿を転載します(原文の誤字は訂正しています)。本日3月5日は、ヤマセンこと山本宣治の命日です。  

〈以下、転載〉

今日はヤマセンこと山本宣治(1889-1929)の命日です(生誕130年。暗殺後90年)。

生物学者だったヤマセンは貧しい労働者や農民の生活のなかに入って性教育や産児制限運動に取り組むなかで、労働運動や農民運動に出会いました。

1928年の第1回普通選挙に京都第2区から当選。労農党の衆院議員として活動。
29年3月5日、治安維持法改悪に反対したことで右翼団体「七生義団」の黒田保久二(元警察官)に神田の旅館でテロられて殺されました。
死後、日本共産党は党籍を送りました。

ヤマセンは宇治の料亭「花やしき」の後継息子として生まれ育ちました。病弱な少年で中学を1年で中退。18歳まで家業を手伝ったり読書や園芸などをしたりしていたそうです(日露戦争の前後のこと)。

18歳でバンクーバーへ。途中、家業が不振で仕送りができなかったため、コック、きこり、工場労働者、漁民、庭師など30以上のバイトをしながらハイスクールに通いました。
この4年間で「温室育ちのお坊っちゃん」から心身ともに鍛えられ、市民感覚や階級意識を身につけたようです。
また、労働者としての生活のなかで急進主義を否定する視点もつかんでいったと…。

22歳で帰国。
当時としては珍しい26歳で京都三高に入学。東京帝大理学部を卒業し、京都帝大大学院に入学した時には32歳でした。京大と同志社で講師をしながら生物学の研究をします。
研究テーマは「イモリの精子」だったそうです。

彼の信念は「人生のための科学」でした。
それを実践すべく民衆に性教育を広めようと奔走します。
多くの人々が「自分は天皇陛下の赤子」だと考え、女性抑圧社会と政府の「産めよ殖やせよ」の号令のなかで貧しい労働者や農民ほど子どもをたくさんつくっていた時代です。

正しい性知識を普及する産児制限運動(産制運動)は、労働運動や農民運動、水平社運動や青年運動と結び付き大衆運動として拡大しました。
それは女性解放や無産階級の生活防衛闘争の内容も含み、封建的な軍国主義政策と真っ向から対立する運動でした。

あくまで研究者として社会運動に関わっていたヤマセンですが、治安維持法による京都学連事件でガサ入れをされ不当にも大学を追放されます。
その後、農民運動指導や反戦運動に参加し、逮捕・投獄を経験しながら、労農党(いわば共産党の合法部隊)京都府連合会の委員長になりました。

衆院議員としては、特高警察による拷問の実態を帝国議会で暴露しました。

一方で、当時、左翼小児病的(ママ)急進主義が横行していた共産党内部の公式主義者や福本イズムにかぶれたような人たちからは、「ヨターリン」(与太話しかしない)と悪口をいわれたり、「産児制限で労働者の暮らしが改善されたら革命が遅れる」とかといわれたりしました。

しかし、彼は革命運動を長期的事業と考えて、急進主義に同調しなかったんですね。

運動の大衆化といったことにこだわった彼のような活動家こそ、当時の共産党に必要なタイプだったんだと思います。

ヤマセンを弔う労農葬は、警察権力の干渉を受けながら行われ、労働者、農民、部落大衆が多く参加しました。

日本にも、人々が民主主義や権利獲得のために血を流してたたかってきた歴史があります。

自由民権運動や大正デモクラシー(明治憲法下の民主化運動)を経て、ロシア革命の影響なども受けつつ、1922年に全国水平社(3月3日)、日本農民組合(日農。4月9日)、そして日本共産党(7月15日)が結成されました。また、日本労働総同盟(総同盟)が戦闘的な新綱領を採択しました。

20年代は社会運動が激化した時代といわれますが、ヤマセンもそんななかで困難な活動を展開しました。

今こそ、戦前の日本共産党のたたかいを含めて労働者や農民、被差別大衆の命がけのたたかいの歴史を継承していこう。

いつか来た道をゆるさない!

ヤマセンの書斎には以下の文言が掲げてあったそうです。

帝国主義戦争絶対反対
戦争撲滅ノタメニ奮闘セヨ

「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る。だが淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから」という死の直前に行った全国農民組合大会(大阪)での演説は有名です。

〈転載終わり〉

山本宣治を描いたものに、『武器なき斗い』という映画もあります。