最近、職場の同僚に、ロアルド・ダールの小説『マチルダは小さな大天才』(宮下嶺夫さん訳)を貸したのだが、すごく面白かったと言ってくれた。まぁ、ロアルド・ダールのはどれを読んでも面白くてハズレなしなんだけど。『マチルダ』はダールの晩年の1988年の作品。そして日本で、評論社から宮下嶺夫さんの訳で本が出たのは1991年で、そのときは『マチルダはちいさな大天才』というタイトルだった。

 2005年から先の評論社で刊行が始まった「ロアルド・ダールコレクション」シリーズで、この本は『マチルダは小さな大天才』と「ちいさな」が「小さな」になって、新しい版が出た。

 今から13年前の2005年にティム・バートンがリメイクした映画「チョコレート工場の秘密」(映画のタイトルは原題どおり、「チャーリーとチョコレート工場」になっている)の公開に合わせて、評論社が『チョコレート工場の秘密』を柳瀬尚紀さんの新訳で出版した。それまで評論社が「児童図書館・文学の部屋」というカテゴリーで出していたロアルド・ダールの本も、ハードカバーからソフトカバーに体裁を変えて、「ロアルド・ダールコレクション」として新たなまとまった形で2005年から刊行が始まった。

 ロアルド・ダールコレクションは全20巻別冊3巻で完結。ロアルド・ダールものは児童書のほうは評論社で、『あなたに似た人』とかそのほかは早川書房から出てますね。

 『チョコレート工場の秘密』は、最初は詩人の田村隆一さんの訳で評論社から1972年に出版された。


古いハードカバーの本の表紙の絵は、こんなだったがのちに、ジーン・ワイルダー主演の「夢のチョコレート工場」のほうからとった絵の表紙に変わった。当ブログ主の子どものころ、家にあったのは、上の絵のほうの本。あの表紙が懐かしいという方もおられるに違いない。

 まぁ、それにしても『チョコレート工場の秘密』新訳版の柳瀬尚紀のあとがきは、今読んでもアタマにくる文章である。評論社の編集者の方もおっしゃられていたが、従来の田村訳では、ロアルド・ダールの英語表現の面白さが伝わってこないという読者の意見もあったそうである。それで、改訳版の翻訳者として柳瀬尚紀さんが抜擢されたのだろう。柳瀬尚紀といえば、日本語では翻訳不能と言われたジョイスの小説『フィネガンズ・ウェイク』の完訳を出して一躍名を馳せた人だ。そのような人が、ロアルド・ダールの言葉遊びをものの見事に日本語にしてくれたのは、それはそれとしてすばらしいことだったのかもしれない。

 従来の田村訳の差別表現の問題や、ダールがアフリカ人差別との指摘を受けて原作を書き換えた部分の差し替えが必要だったことなど、改訳が必要だったという事情はよくわかる。だがしかし、ロアルド・ダールを日本に紹介してくれた田村隆一さんを柳瀬尚紀が訳者あとがきであそこまでコケにしなくても、という気はする。

 


 さて、北海道在住のハンドルネームkmyさんのブログ『雨降り木曜日』
『いじわる夫婦が消えちゃった』『アッホ夫婦』という記事がある。もう、今から12年前の2006年07月13日付のものだが、ロアルド・ダール作「The Twits」(1980年作)の新旧翻訳比較をやってくださっている。田村隆一さんの旧訳と柳瀬尚紀さんの新訳の比較だ。kmyさんは、その前に、『チョコレート工場の秘密』の新旧翻訳比較もやってくださっております。興味ある方は、そちらもぜひ読んでみてください。

 このブログは昨年2017年6月2日を最後に更新が途絶えているが、多分、あとにも先にも「The Twits」の新旧翻訳比較をやっているのはこの記事だけだろう。

 最近また、ロアルド・ダールにハマりつつあるので、kmyさんの文章をコメント含めて、全文転載しよう。kmyさん、もし不都合がございましたら、転載部分は削除してリンクを貼って、書き換えます。

 ちなみに当ブログ主も、この当時、koiのハンドルネームで拙いコメントを寄せている。

 さて、「The Twits」の田村隆一訳『いじわる夫婦が消えちゃった!』(1982年刊)の表紙はこちら。

2005年から評論社で刊行がはじまったロアルド・ダールコレクションシリーズの柳瀬尚紀訳『アッホ夫婦』(2005年9月刊)の表紙はこちら。



 

それでは、以下kmyさんのブログ記事からの転載です。


 ダール作品翻訳読み比べ第二弾! なーんて、大袈裟なものでもないですが、この物語はとにかく面白い! 何が面白いって、それはこの夫婦のえげつないやりとりと結末のおかしさ。

  なんと言っても好きなのは「ミミズスパゲティー」の場面。どうにかやり込めてやろうと奥さんがだんなのスパゲティーにミミズを混ぜてトマトソースをかけで出す。「新発売」と言い張る奥さん。「いつもみたいに、うまくないぞ」というだんな。ぜーんぶ食べちゃってから種明かし。この夫婦、本当にお互いにやりあうのが生きがいなのがおかしい。二人だけでやっている分では話は永遠に続くかと思いますが、飼っているサルたちが絡んできて、お話はさらにどーんと大きくなって収束します。これがまたうまくできています。

 以前にkoiさんからコメントを頂いて(新旧翻訳比較『チョコレート工場の秘密』)、この本は絶対読んでみようと思っていました。田村さんの訳と柳瀬さんの訳の違いも気になりましたし、子どものころ読んでいなかったので、田村さんの訳に親しんで、ということもありませんでした。一文ずつ読み比べてみると、koiさんのコメントにあったように、田村さんの訳は語りかけるような雰囲気があります。原文を読んでいないので、訳文だけの比較になります。すみません。
 

 いまの世のなかヒゲだらけのおとこが、やたら目につく
(略)
 たぶん、だからこそ、ヒゲだらけにするんだ。つまり、ほんとうの顔を知られたくないってわけ。(田村訳 P9)

 世の中には、顔じゅう毛じゃらの男が少なくない。
(略)
 おそらく、そういうわけで生やすのだろう。顔を知られたくないのだ。(柳瀬訳P9)

 ながい年月、ぜーんぜん洗ったことがなかったんだってさ。(田村訳P11)
 
 何年も洗ったことはない。(柳瀬訳P12)
   
 
 ここに、ツィット夫婦の家と庭を書いた絵がある。すごい家だ! まるで刑務所だな。それに、どこにも窓がないじゃないか。(田村訳P50)

 これはアッホ夫婦の家と庭の絵である。たいそうな家! 刑務所のようだ。しかも窓がどこにもない。(柳瀬訳P55~56)

 そして、フレッドくんもいれて、せけんのすべての人たち、こうさけんだんだってさ…… (田村訳P107)

 そしてだれもかれもが、フレッドもふくめて大声で叫んだ…… (柳瀬訳P113)


 田村さんの訳は会話よりも、地の文に特徴がよく出ていると思います。柳瀬さんの訳では「だ・である」調で淡々と述べていくのに対し、田村さんの訳は語尾に助詞を多用しています。会話で女性・男性の区別をつけるために「ね・よ・わ」などを使うことは多いもので、柳瀬さんはそれを避けるほうが好ましいと考えているようでしたが、田村さんは地の文でこの助詞をよく使っています。これによって、koiさんのコメントにあるような「語り」の雰囲気が出てきているのだと感じます。「~さ」などは昔話を語るような、そういう印象があります。

 細かい訳語について少々見ていきます。

うまれつきのブスじゃなかったんだよ。(田村訳P17)
生まれつきの醜女(しこめ)ではない。(柳瀬訳P18)

おでき(田村訳P18)
疣(いぼ)(柳瀬訳P18)

ガラスの目玉(田村訳P19)
義眼(柳瀬訳P19)

カエル(田村訳P22)
蛙(かえる)(柳瀬訳P23)

ミスター・ツィット、大ショック(田村訳P48)
アッホ氏の驚愕動転(きょうがくどうてん)(柳瀬訳P51)

ぺったり印のせっちゃく剤(田村訳P53)
〈抱きすくめ〉粘着糊(ねんちゃくのり)(柳瀬訳P57)

あの恐ろしい、いやらしい、ばけものども(田村訳P80)
あの二人の野暮(やぼ)で野蛮(やばん)な輩(やから)(柳瀬訳P84)

ブスばばあ(田村訳P105)
醜女(しこめ)の婆牛(ばばぎゅう)(柳瀬訳P110)

ヒゲだらけのイノシシやろう(田村訳P105)
爺疣豚(じじいぼぶた)(柳瀬訳P110)


 目についたものを拾いましたが、柳瀬さんの特徴として漢字、熟語を多用する傾向が見られます。かなはふってあるので読む分には差し支えないと思います。漢字の持つ雰囲気と音という組み合わせで訳すことは柳瀬さん自身、こだわっているようで「むかで」ではなく「百足」としたことについて「漢字のほうが、ずっと感じがいい。(『おばけ桃が行く』P231)と別の著書でも述べていたりします。

 全体的な印象としては、田村さんの訳は「聴覚的」で柳瀬さんの訳は「視覚的」だといえるのではないかと思います。昔話のような語りや語尾に助詞をつける田村訳。熟語を避け聞いてわかる言葉を好んで使ってあるので、読んでいるのに、聞いているような印象です。対して柳瀬訳は目で文字を見て字体と音とで重層に言葉を頭に流し込む感じがします。

 どちらがいいか、というのはやはり好みの問題でしかないのでしょうが、わたしは田村さんの訳を押します。音として頭に残るのと、実際にすさまじい夫婦のえげつないやり取りが実感できるような気がします。

「おまえ、ちぢまり人間さ!」
「うそにきまってらい!」(田村訳P33)

「おまえがちぢんでいるんだ、おまえがな!」と、アッホ氏。
「そんなはずがない!」(柳瀬訳P35)


 くだらない会話の一文ですが、田村訳の「おまえ、ちぢまり人間さ!」という言い方が妙に気に入っています。大の大人なのに、子どもじみたこの言い方が似合っている二人、という感じがするのです。「ぺったり印」という訳や「ミスター・ツィット、鳥パイしっぱい」という19章のタイトルの語調も耳から入ったように印象に残ります。

 田村さんはあとがきで「ぼくはできるだけ『子ども語』を使わないようにしました。お子さんに、よくわからない言葉づかいも、たまには出てくるかもしれませんが、おかあさんがやさしく説明してあげれば、かならず子どもの心に刻みこまれるはずです」(田村訳あとがきP109)とありますが、その通りだと感じます。やっぱり買うなら急いで田村さんのほうでしょうか。

posted by kmy at 10:37


この記事へのコメント

こんばんはkmyさん。“The Twits”(原題です)の読み比べレポートもやっていただいてありがとうございます。
ミスター・ツイットが使っている世界一強力な糊は、原文では〝Hugtight〟となっています。つまり柳瀬さんの訳では原文どおりの訳になっているわけですが、田村さんは「ぺったり印」としています。〝Hugtight〟をそのまま<抱きすくめ>と訳すと、確かに意味はその通りなのだけれど、一度くっついたら離れない世界一強力なノリという感じがするのかどうかな、ということは言えると思います。要するに文化の違いということです。「ぺったり印」のほうが日本語としてはしっくりくるのではないかと思います。〝Hugtight〟をそのまま生かすのであれば、「金縛り」とか「がんじがらめ」のほうがいいかもしれません。
「ミスター・ツイット、鳥パイしっぱい」(田村訳)、「鳥のパイ無しアッホ氏」(柳瀬訳)は、原文では〝No Bird Pie for Mr. Twit〟です。原文に忠実に訳すと確かに柳瀬さんのようになりますが、私もkmyさんのおっしゃるとおり「とりパイしっぱい」のほうが面白い訳だと思います。日本語としてのシャレがきいていていいなと思います。

Posted by koi at 2006年07月14日 19:24


koiさん、ありがとうございます。原文は読んでいないのですが、田村さんは単に訳すということではなく、日本語らしい表現を好まれる(日本語として自然な感じ)を使われているような気がします。「抱きすくめ」は原文を読むと、そういう訳になるのもなるほど、と思います。でも「抱きすくめ」という言葉は「抱擁」のイメージが強く出るような気がして、接着のイメージと少しずれているように感じたので、koiさんのご意見に賛成です。
タイトルも田村さんの訳のほうがわかりやすく面白いと思いました。

Posted by kmy at 2006年07月15日 11:46


翻訳の違いで読み手の受ける印象がずいぶんと変わってくる、ということがわかる興味深いレポートだと思います。『チョコレート工場の秘密』の翻訳比較レポートにコメントを寄せてくださった方の意見もぜひお伺いしたいなあと思います。

kmyさんの〈田村さんの訳は「聴覚的」で柳瀬さんの訳は「視覚的」だといえるのではないか〉というご意見はまったくその通りだと思います。
田村さんの翻訳は、読み聞かせも念頭においた訳です。児童書であれば、大人が子どもに対して読み聞かせをするということは当然想定されるわけであって、田村さんの訳はそれを十分に意識しています。そのことは田村さんのあとがきでもうかがい知ることができます。
それに対して、柳瀬さんは文章を読み聞かせるということはそれほど意識はしていないのではないでしょうか。日本語の場合、漢字カナの使いわけで意味合いが変わるという視覚的要素も持っています。でも言葉っていうのは、文字という視覚的要素ばかりではありませんよね。誰だって言葉は母から受け継いでいます。人間は耳から言葉を覚えていくのです。生まれつき耳が不自由な人でも、自分の感覚から言葉をものしていっているはずです。
若かりしころ落語に熱中した田村隆一さんは、耳から聞こえる言葉の美しさや面白さを、実に多くの読者に提供してくれたのだと思います。自分が美しいなあと感じる表現って、それは耳に心地いいじゃありませんか。田村さんの日本語は耳に心地いい表現の宝庫です。だからこそ、それは多くのみなさんにとって忘れられない「味」として残っているのだと思っています。

Posted by koi at 2006年07月21日 19:16


koiさん、いつもありがとうございます。読み聞かせを念頭においた訳というのは同感です。目を瞑って聞いていても面白くおかしいお話、という印象がありますが、柳瀬さんは漢字のもつ字体や印象を訳で好んで使うという傾向のようですので、そういう点で同じ物語なのに違いを感じるのでしょうね。田村さんの訳は「耳」から入るようで台詞はタイトルが「音」として印象に残ります。物語の文字を視覚的に印象付けるのは読んでいる途中では効果的ですが、本を閉じたあとに残り難いような気がします(漢字が出てこない、という経験ってありますよね)。
koiさんの研究で「田村さんと落語」がありましたが、なるほど、落語って「聞く」ものなのですよね。翻訳というのも単に本を読んで言葉を移すだけでなく、耳から入って残るという方法もあるのだと改めて感じました。

Posted by kmy at 2006年07月24日 09:48


『マチルダ』は、kmyさんのお薦めどおり、心から楽しめました。思いがけないストーリー展開と全編を貫くユーモアが楽しかったです。
この勢いで、やはりkmyさんご推薦の"The Twits"を注文してしまいました。楽しみです。英国アマゾンのマーケットプレースで『チャーリーとチョコレート工場』が2ペンス(約4円)という安さだったので、思わずこちらも注文してしまいました(これを読まずに育ってしまったもので)。
というわけで、この夏はロアルド・ダール三昧です!

Posted by みちえ at 2006年07月26日 18:31


みちえさんも『マチルダ』を楽しまれたようで、わたしも嬉しく思います。ダールは大人向けの本も出しているそうですが、児童書しか読んだことがないので、図書館で借りてきたところです。
『チョコレート工場』(安いですね!)はやや古いタイプの物語で、円満な家族にほっとしますが、こちらの『アッホ夫婦』の家はすさまじい夫婦です。ラストへの持っていきかたがうまいなあと思う作品です。
わたし自身、ずっと児童書というジャンルが好きで、よく読み返したりしていますが、イギリスでは異なるようで興味深いです。また感想をお聞かせください♪

Posted by kmy at 2006年07月27日 13:46



「雨降り木曜日」のブログ記事の引用はこれで終わります。どっちの訳が面白いかは読者の方々の好みだと思いますが、私は田村さんの訳のほうが断然おもしろいと思います。日本語としてのユーモアやセンスは、田村さんの日本語のほうがはるかに上。これは田村さん、柳瀬さんのエッセーを読み比べてみるとよくわかります。柳瀬尚紀さんのエッセーは、猫や将棋、競馬について書いたものが多くて、田村隆一さんの守備範囲とは異なるけれども、いささかユーモアに欠けている気がするのは私だけでしょうか。