こんばんは照れ

いつもありがとうございますキラキラ

ジブン成幸学研究所♡

幸せ研究員のふくです(^^♪

 

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今日ふっと浮かんできたことがあったのでシェアしていきます。

 

が、、、

自分語り濃度が濃いめなので

興味ない方はこちらでドロンしていただいても大丈夫です笑い泣き

読んでやってもいいぞ~という方は、しばしお付き合いくださいませ( *´艸`)

 

 

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今朝歩いていたら、ふっと母の姿が思い浮かんで。

 

頭の中の私は、

出かけようとする母の持っていくカバンが母の体の負担にならないように、ショルダータイプのカバンを選んで頭からかけてあげているような映像が浮かんできた。

 

 

その時、

すごく切ないような、なんともいえない感情が押し寄せてきた。

 


昔は大きくて強かった母の体が、とても小さくなったような気がしたのだ。

多分、お正月に帰省した時に口にはださないけど私が感じていたことなんだろう。

 

 

母は剣道も有段者で、スポーツを教えていたような人だから華奢なタイプではない。

今だって決してやせ細っているわけでもない。でもお正月にみた姿は、確実に少し前かがみになったような筋肉が落ちたような感じの小さくなり方をしていた。

 


そんなことを思い出していた時

 

「いつまでも同じ時間を過ごせるわけじゃない」

「魂はずっと存在し続けるかもしれないが、カラダにはいつか終わりが来る」

 

そんな言葉が浮かんできて。

なんともいえない切なさに、足が止まった。

 

 

いつも何気なく過ごしているけれど、

私たちは生まれた時から「死」に向かって歩んでいる。

明日なのか何十年後なのかはわからないけど、みんな平等にやってくる。

 

私はまだ「あの世」というものにいったことはないし、魂がその後もずっと生き続けるのかどうかも確かめたことはない。


でも、仮にそうだとして。

カラダを離れても魂がずっと生き続けているとして、そばにいたい人のそばにいられるのだとしても。

 

「この世」を生きている私たちと「あの世」にいるであろう魂は肉体的に触れ合うことは叶わないのだ。

 

 

私の父はもうなくなっているし

大好きなおじいちゃんも、親戚のおじさんおばさんも、大切な友人のうちの何人かも、いま「この世」にはいない。

 

 

私の個人的な考えとしては、おじいちゃんやご先祖様はいつでも一緒にいてくれると思っているし

大切な友人知人も、呼びかければその声は届いていて、私のところに遊びにきてくれてるんじゃないかとも思ってる。

(ちなみに私は「あの世」は「あの世」として幸せな世界がきっとあって、この世では叶わないようなこともできちゃうスーパーミラクルな世界なんだろうなとも思っている^ ^)


そう思っているから、ふだんから独り言のように話しかけたりしている私の日常がある。


 

でも、残念ながら触れ合えないのだ。

どんなに想ってみても

どんなに話しかけても

それが相手の魂に伝わっていたとしても。





 

だから、

「カラダ」があるってすごい幸せな事。

 

 

ちなみに、カラダはその人の「命のカタチ」なんじゃないかと私は思っている。

魂は目に見える形ではいられないから

「この世」にいる間、お互いが認識しあえるための「カタチ」。

 

 

カラダが与えられているということはとても尊い事で、かけがえのない事なんだと思う。


魂は永遠だとしてもカラダは永遠じゃないから。

 

 

同時に

家族や友達や大切な人たちの顔が思い浮かんだ。

 

その人たちが「命のカタチ(=肉体)」をもって目の前に存在してくれていることが

たまらなく愛おしく感じて、感謝の気持ちがわいてきた。

 

 

カラダがあるから触れ合える。

ぬくもりを感じることもできるし

髪をなでることも、

抱きしめることもできる。

においをかぐこともできるし

声をきくことも、手をつなぐこともできる。

 

 

もうね、

控えめにいって超絶幸せなことだと思う。

ダブル成人式を迎える年齢になって、そんな当たり前のことに気が付くなんて泣き笑い

でも、気づけてよかったよほんわかほんわか

 

 

 

普段何気なく生きていると

つい自分のカラダは自分だけのもののように感じて無理をしたり、粗末に扱ってしまうこともある。

 

 

でも、何物にもかえがたい

大切な命のカタチがカラダなのだと気づけたことで

自分に与えられた「命のカタチ」を、もっと大切に扱いたいと思ったし

自分以外の人の「命のカタチ」も、もっと大切にしていきたいと思えた。




 

自宅に帰って、愛鳥と戯れる。

てのひらに伝わってくる、あったかい体温。

毎日の風景なのに、涙が出そうになるほど幸せで。

 

見た目がかわいいとか、かわいくないとかそういうレベルの話じゃなくて。

(いやもちろん、うちの子は宇宙一かわいくて愛しいけども(笑))

↑親バカグラサン

 

ココロのそこから

「生まれてきてくれてありがとう」

「今日も元気で生きててくれてありがとう」

って思える。

愛鳥がうんPをしても

「いい仕事してますね~」とつい快腸ぶりを讃えたくなる。

(親や夫に対しては、まだその域までは至ってません(笑))

 

 

最近それを家族にも表現しちゃってるから

夫にはやや気持ち悪がられてる部分もありますが笑い泣き

 

 

ってなわけで本日の超自分語りは

 

「たった一つの命のカタチハート大事にしよーぜ!!」ってことで

おしまいにしたいと思いまーすニコニコ飛び出すハート

(私も暴飲暴食控えるぞーーーーウシシ音譜笑)

 

 

さいごまで読んでいただいた方、めっちゃありがとうございます~

なんか今日ずっとこのことが頭にあって

書かずにはいられなかったので

ついつい長文つづっちゃいましたデレデレ笑

 

 

今日もお読み下さりありがとうございます(*´▽`*)

皆様の毎日がいつも幸せに包まれていますように虹虹