しろくま君です~(´(・)`)
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西海市の宿泊地から3時間かけて南島原市へ・・・。
着いたのは原城跡。




原城跡はかつて、島原の乱の舞台だった場所で、世界遺産登録候補の中で、長崎キリスト教遺産の中の一つ。

その原城跡は、元々キリシタン大名の有馬晴信が気づいたものですが、転封のあと、廃城されたもの、島原・天草にて一揆が起こりそのままキリシタン軍へ変わり、天草四郎時貞を総大将に置き、原城跡にそれぞれが集まり、立てこもったのが島原の乱と言われている。
天草四郎時貞はまだ未成年(今の時代で言えば・・・)で14、15歳でカリスマをもっているのか総大将になったと。
聞けば美男で、キリストを深く崇拝している。ちなみマジックができるから神の子だと崇めていた。

島原の乱が起こると慌てた幕府は第1軍、板倉氏を送ったもの、地位の違いにより九州の各大名が従わえないということが発覚で、急遽家老の松平信綱を送った。
前記通り、九州の各大名が従わなかったため、板倉氏が戦死した。第2軍の松平氏は兵糧攻め(飲食の補給路を絶って飢餓させて攻める)の方法をとり、じっとにらんだまま、時折にはオランダ国に支援をたのみ、船から砲弾を打ち込んだりした。
だが、兵糧責めの効果なのか、一揆軍は疲れの顔を見せ始めたが、佐賀藩大名の鍋島氏が勝手に攻め込んだことで、総攻撃をかけた結果、幕府軍は勝利となった。こうして、キリシタン一揆軍1万3000人ほど戦死、生き残ったとしても殺された。








こうして、キリシタン迫害が続いた。
今の浦上天主堂のところには、かつて浦上崩れ(キリシタン迫害するためにの処刑地)があり、そのなかのひとつ。

原城跡を見ても、激しい戦地があったとは思えない。また天草四郎時貞の像が置いてあり、また首塚がある。



原城跡を見おわって、次に島原の乱などの資料がある、キリシタン文化センターへいき、見学。
そのあと、原城駅跡をみて・・・原城跡の近くにあるレストランで島原そうめんを舌鼓。



そのあと、島原へ・・・。
続く→