月笑う | 拙い言葉で戯言

月笑う

まるい月が濃紺の空に浮かぶ夜。ふと。自分の存在価値を見失う。日々の生活で無くしたモノは沢山ありすぎて。月に照らされて銀色に光る窓のサッシの上に座り、頬を撫でる風に髪を委ねて。細く微笑む。逃げてみよう。アパートメントの下に置いてある朝顔が顔を出す前に。脳裏に青空が見える。
明日はきっと晴れだ。

がむしゃらに足を動かす私。何かに追われている気がして。時々後ろを振り返りながら。
突然、何かにつまづきそうになる。道路の真ん中に、私と同じように 傘もささずにずぶ濡れになって横たわっていた。

降り続く雨が少し弱まった頃。私は唐突に、水を纏う黒髪の猫を拾った。ホント…唐突に。その姿はとても綺麗で。しばらくその姿を眺めていた。「…大丈夫?」声に気付き、私に向けられた 猫の目は。鋭く。傷付いて。儚く。助けを求めてる獣の目。 その瞳は的確に 私を捉えた。

外の雨は正午が近付くにつれて、勢力を無くしていく。徐々に夏の熱さを取り戻しつつある。今日は夕立はこない。確信的にそれを思う。猫はあれだけ雨に打たれて 体は冷えていたはずなのに、体を拭いていた大きな体を包むバスタオルをはね退けて、私に警戒の目を向ける。無防備に触れてしまえば、長く伸びた爪で 深い爪痕をつけられるに違いない。お腹が空いて余計、イラだっているのかもしれない。座っているベッドから立ち上がり、鍋でミルクを少しだけ温めて 底のあさいお皿に移しかえる。それだけではなんだか味気無いから、さっき買ってきたモッツァレラとトマトとレタスのサンドイッチをひとつ、分けてあげた。二つのお皿をじーっと見つめている猫の前に差し出す。まだ警戒しているのか反応は無い。「お腹すいてる?ここ寒いでしょ?一人で食べるの寂しいから一緒に食べよ。」声をかけると、やっと警戒を解いたみたいに恐る恐る歩み寄ってきた。私と少し距離を置いて、横に小さく座る。余程お腹が好いていたのか、勢いよくサンドイッチに喰らい付く。床に落ちたトマトも器用に舐めるようにして食べた。ミルクをピチャピチャ舐める音
が耳をくすぐる。静まり返っている部屋の唯一の音。この部屋に私以外のものがいることが なんだか不思議で。欠けていたパズルのピースを拾ったような感覚になる。

さっきまでの警戒していた雰囲気が嘘みたいに 和やかな空気が流れ込んでくる。ふわふわした猫は温かさが溢れてる。それを感じたくて、そっと体に触れる。猫は反射的に体をびくんと揺らし、透明な瞳で真っ直ぐ私を見つめる。「……鳴いてみて?」と言う私。しばらくしてから猫は鳴く。「……………にゃぁ。」 部屋に、私の錆び付いた心に色がついた。

疲れ果てて、猫と体を寄せあって眠った。体温が心地良くて、私は何度も猫の頭を撫でた。久しぶりに何かを愛しいと感じて。隣で猫が寝返りを打つ。眠そうに薄目を開けて、手で髪をかきあげながら「アンタ狂ってるよ」と呟く。


猫の名前は『遊輝』と言った。