いつしか母に似たような人を探しているのか


それともたまたま見かけるのか


街で似た人を見かけると、何度も振り返ってしまう


そういうところは亡くなってから何年経っても全く変わらない


この9月で母が亡くなって4年が経った


もう5年目に入ろうとしている


「今日かもしれへんな」

母を自宅で看取った日の朝の空気とその時の気分を思い出した


未だに亡くなる前後の写真や動画は直視できないでいる


かといって日常生活の中で、母がこの世にいないことは十分に受けとめていて、悲嘆にくれることもない


亡くなった人は、心のなかで生き続けるとよくいわれるが、そんなふうに感じることが多い


肉体や精神はこの世には"ない"のに、である


"ない"のに、心のなかには"ある"


言葉ではうまく説明できないが


母の知人とつながったり、夢の中でたまに出てくることもあったり、街で見かける似た人も、そういうことの一つなのかもしれない


心のなかで生き続けてくれることで、歳を重ねて自分の役回りの変化とともに年々、関係性が変わり続けているのを実感している


人は誰かとのあわい(間)で生きている


このことを実感できる



叔母(母の姉)が自身の孫の結婚式に出席して、母がうちの長女の結婚式に出たいって話してた


母の知人やその家族と会う機会が毎年続いている。その方々から母のことを聴くのがとてもたのしいし、新鮮な気持ちになる


一人で生活している父のところに様子見できていない日が続くと、母が何かと夢に出てきてくれる


父と呑みに行くと、ほぼ毎回と言うほど、父の母への懺悔会となる

「あんなこと、こんなことしてあげたらよかったかな」と


母が好きだった飴ちゃん、チェルシーの販売が終了になった


娘たちが、買い物に行くたびに母が好きだったブランドやキャラクターを教えてくれる

「これ好きやったやんなぁ〜」


いつも母が気にかけてくれていた長男が、今年ハタチを迎えた。母がいれば間違いなく長男に抱きついていたやろうな


孫たちを残していけることに、満足感や幸福感があることを母は話していた

「あんたら子どもと孫も、たくさん自分の分身がおるもんね。ほんでええ嫁さんもおってくれてだからもうええねん、じゅうぶんやねんで」

と、仕事と療養生活の両立の真っ只中の時に母から聞くことがあった

母は泣くわけでもなく、むしろすっきりした表情だった



『ふるさと』の唄の意味をふと思い出した


「そこから生まれてそこへ帰っていく」

「人はみな自然に帰っていく」


そんなことを悟って、自分に言い聞かせるように話してくれたのかもしれない



心のなかに生きている


そして、


人は誰かとのあわい(間)で生きている


これからも母との関係性も変わり続けそうだ

孤立を薬ではなく、地域のつながりを処方する社会的処方


「コミュニティコネクター」


聞き慣れない名前だか、


社会的処方のなかで、「市民リンクワーカー」ともいわれている


市民が市民のままで、だれかを元気にする


市民個々が持つ好奇心やおせっかい精神を活動の場所に参加することで、その力を発揮することができる


超高齢化、人口減少に加え、一人暮らし世帯の増加、社会的孤立や無縁社会ともいわれる時代、そんな仕組みや担い手づくりが急務ではないか


社会的処方は、日本では2020年の骨太の方針の中で、孤立孤独対策の手段のひとつとして明記された


2021年には内閣府に孤独・孤立対策担当室が設置され、担当大臣も置かれた


厚労省による社会的処方のモデル事業(保険者とかかりつけ医等の協働による加入者の予防健康づくり事業)を名張市や養父市、豊岡市など各自治体での取り組みが実施されている


職業リンクワーカーは、各自治体職員や医療機関などの職員(看護師やPT,OT,ST、社会福祉士など)が務め、その方々が中心となり、市民リンクワーカーとの連携、担い手づくりに取り組んでいる


イギリスが発祥の社会的処方は、日本独自のかたちで試みが始まったばかり







地域リハビリテーションに関わる者としては、今後はずせない取り組みの一つだ



市民自身がどうありたいか、自分への問いかけの時間、自分自身に意識をつなげる、価値観に気づく

対話社会のなかで、身近なコミュニティや社会課題のことを話題の入り口にして、対話を深め、自分自身を大切するプロセス


そこにはwell-beingや健康が存在する


地域のことを考えることは自分を考えること


人間の本質とは人とのつながりにある


「健康とwell-beingのために非医療的な要素が重要である」ことに気づくために社会的処方という言葉がある


共に支え合うためにだれもがリンクワーカーというのが理想の姿だろう


参考)

「みんなの社会的処方」西智弘編著、学芸出版社、2024年



こころの故郷でもある沖縄から生まれ故郷の大阪に戻ってきてからの10年間


働きはじめてあと先を考えず、逆算をせずに、目の前のこと、求められること、断らずにしてきたあっという間の10年間だった


そして、会社でも地域でも学校でも頼まれもしないことにも着手し、大体34割増で仕事に取り組んだ


まだまだやれそうなこと、やらないといけないことが山積みだ



この3月のある日、晩ごはんの前に、妻からの提案で将来のことを一緒にじっくりと考えた


提案の意図はこうだ


「これからやりたいことをやっていくために、時間もお金を無駄にしないためにも、目に見えるように書いて出してみて、ただシンプルにしたい」


そのなかで、


自分たち、子どもたちの年齢から、そのときは大学何回生?小学、中学、高校何年生?そのときは就職、結婚、子育て


仕事や生活、暮らし、遊びのなかでやってみたいことはなにか?

 

「沖縄にもゆっくり帰りたいな」


「みんなで旅もしたいな」


「孫のお世話もしたいな」


書き出すとどんどんクリアになってきて、シンプルに



将来のことを考えたり、目標をもつことの大切さとそれらの理想像と現実との折り合いをつける難しさはもう知っている


先のことはわからないと思いつつ、周りがどうこうというよりも自分との付き合い方を考えることになる


それによって不安や焦りより、むしろたのしみが増した感じ


それも歳を重ねてきた時熟の味わい※かな


※『時熟の味』池田晶子(哲学者)

「考えることは人間として生まれたことの醍醐味。思索が美味しくなるのは、人生の果実が熟する晩年に決まっている」



訪問介護の身体介護「共に行う家事の調理と買い物」の経験から


味のおいしさ、盛りつけの美しさ、この材料からどんなものができるのかわからないからこそうまれるたのしさやおもしろさ、健やかさがあった


共に行う家事は、生活をデザインしなおして家事を自分でやり続けられるようお手伝いする仕事


訪問介護という在宅生活者のケアは、アートの塊であり、ブリコラージュ(あり合わせの材料で何とかする)の連続


その人ならではのもの


他の掃除や洗濯、片付け、整理整頓などの家事も暮らしの中でたのしみなりうるもの


便利な現代社会では、お金でサービスを買うことで、暮らしの中で自分でするというたのしみを簡単に手放して、他の人たちに外注してきた


いよいよ高齢者、要介護状態になると、介護保険サービスもあり、在宅生活で自分ですることを自らあきらめてしまいやすい状況が揃っているのかもしれない


デイサービスに通っていても、やりたいことを"なかったこと"にして、みんなと同じように過ごす時間が大半になっている方々が多いだろう



それこそ、訪問介護の身体介護「共に行う家事」の出番ではないか


日々の暮らしの中のたのしみでもあるはずの家事


要介護・要支援者自分自身でできることはするということが最大の介護予防、重度化予防になる


"よくする介護"


そのお手伝いを真っ先にできるのが、訪問介護の身体介護の見守り的援助、共に行う家事だろう


要介護・要支援者と一緒に、台所に立ち、必要あれば、買い物にも同行し、在庫も確認しながら、ありあわせの材料で、美しいものを作って、おいしく食べる


そして健やかに暮らす


そこからうまれるのは、暮らしのたのしさしかない


たのしさは継続するための原動力にもなる


たのしさがあれば、ケア者と被ケア者という関係性もぼやけて溶け合うような感触がある


訪問介護の利用者さんから逆に元気をもらうことの方も多い


そこには、ケアする・されるの関係に逆転もありうる


そして、お互いの成長がある


互いが互いを必要とする関係性、この相互依存的な関係性こそがケアの醍醐味


訪問介護の仕事は、専門性が高いというより奥深すぎる


訪問介護と暮らし、ケアとデザインやアートはつながりあっている


マンションの炊き出し訓練にて



ロマンチスト(理想主義)は、どうありたいという姿を見据えながら可能性を追求する姿勢なのか


リアリスト(現実主義)は、今ある現実をみてそれをどうするのがいいのか考える姿勢なのか


beingdoingの関係性にも少し似ている


より良くあるべき姿に近づこうというbeing


だだ決められたことを忠実にするというdoing


とにかくこの2つのYESNOかの二項対立で考えないのが肝要だ


議会政治制の多数決だけで決めるのでもなく、ただ少数派を否定するだけでもなく


多数決が民主主義というのはまさに妄信


それらは格差拡大や差別を生み出すだけだろう


今そこにある現実だけをみて、少し偏狭なとらえ方をしようとするのも同じことだろう


相手とのとらえ方の中で、エンパシーを発揮しながら、自分を失わずに自分のとらえ方に折り合いをつける作法がアナキズム


これがほんとうの意味での民主主義なのかもしれない


可能性を追求する姿勢やこうありたいという理想をみながら行動できるのは、その人の生活背景や元々の性格も大きく関わるはずだ


現実をみて、未来志向で何をどうするかというところが大事になる


いずれにしても、現実主義と理想主義を二項対立で考えることなく、そのふたつを往来するとらえ方は欠かせない


それには、自分や他者のその人ならではの価値観やとらえ方、その人の人生の物語りを能動的にとらえようとするナラティブ・アプローチを磨くことが必要になるだろう


そのなかで、これからの人間が必要な能力と、グレーバーも言った「reasonableリーズナブル穏当さ」を身につけて生活の中で発揮していきたい


自分の考えをしっかりと持ちながらも、エンパシーによる他者視点取得(パースペクティブテイキング)にもコミットし、対話を繰り返して落とし所を一緒に探していく


日々の暮らしのなかでも、地域活動に参加するなかでもそんな姿勢でいたい