前にも少し書きましたが、お金を卑しいと考える人は多いですね。
江戸っ子は宵越しの金を持たないとか、昔からお金に執着しないのがよいとされていました。
それが続いているのかもしれませんね。
ただ、そればかりではないようにも思います。
価値観が昔と今で180度変わっているものはいっぱいあります。
それなのにお金の意識が変わらないのは、なぜでしょう?
その方が都合の良い人がいるからではないかと。
会社の経営者の方とかはそうかもしれないですね。
それでは、改めて冷静に考えて、本当にお金の話をしたりお金を稼ぐことは卑しいことでしょうか?
例えば、ある人がずっと欲しかったものを、誰かに無償でもらったとします。
あげた人は、相手が喜ぶだろうと思ってあげます。
そしてもらった人はくれた人に、ありがとうと感謝するでしょう。
これにお金を媒介させるとこうなります。
ある人がずっと欲しかったものを、誰かが売ってくれました。
売った人は、相手がお金をくれるだろうと思って渡します。
買った人は、ありがとうと感謝する代わりにお金を渡します。
つまり、お金は感謝の気持ちの代わりとして機能していることになります。
別の観点からも考えてみましょう。
お金は、それ自体に価値はありません。
昔は金本位制で、金(きん)の価値とお金がリンクしていましたが、今はそうなっていません。
お金は、必要とあればいくらでも刷れます。
実際、現在は世界中の国が、金融緩和でお金を刷りまくっています(日本も含めて)。
お金自体には価値がないのに、商品の引き換えにお金を渡して済ませられているわけです。
ということは、お互いがお金をその商品の価値の基準として信用していることになります。
つまり、お金は相互信用の証でもあります。
感謝の気持ちの媒介であり、かつ相互信頼の証となるもの、お金。
こう考えると、お金はとっても尊いものという気もしてきますね。
あるいは逆に、感謝とか信頼とか、美辞麗句で塗り固められているために、かえってお金に汚い何かを感じてしまうのかもしれません。
ただ、こんな風にお金についてマイナスの考えが抜けないのは、結局のところ、我々が恵まれているからという気もします。
本当にお金がない人は、そんなことは言っておられません。
昔、スモーキーマウンテンの話を聞いて深く考えさせられたことがあります。
スモーキーマウンテンというのは、一言で言うと、発展途上国のゴミ捨て場です。
有害物や危険物とか、いろんなものが捨てられています。
そこでは、いろんなゴミからメタンガスとか揮発ガスが出て、それらが自然発火して煙が出ているのでこう名づけられています。
他にも、アスベストとかダイオキシンとかの有害物も含まれていて、本来ならば危険で入ってはいけないはずの場所です。
しかし、そこには逆に、多くの人が入ってきています。
しかも、それが幼い子供とか貧困層の若者とかです。
捨てられているゴミの中のペットボトルとか金属など、役に立ちそうなものを回収して売るためです。
しかし、そんな危険な思いをしても、得られるお金はごくわずかです。
1日拾って得たお金は、その日の食べ物を買えばそれでおしまい。
次の日も、その次の日も、その日の食事を得るためだけに危険なゴミ捨て場に行きます。
このような生活では、貧困から抜け出せない上に、若いうちに体を悪くして働けなくなります。
その結果、貧困が次世代に連鎖していくこととなります。
日本人でも、最近は格差社会とかで貧困層が広がってきていますが、それでもこれほどの境遇の人はほとんどいません。
このような人たちについて考えると、お金の話は下品などと言っては失礼な気になります。