リビアで虐殺が行われているようだ


実弾水平射撃

手榴弾

戦車

ヘリコプターからの機銃掃射

戦闘機による空爆


これらが本当ならまさに虐殺だ

これまでに500人以上が殺戮されたという推計もある


どうしてなのか?

ここまでしなければならない理由を想像するのが難しい


政治制度が未整備なまま

独裁的に統治してきた中で

いったいどんなことが起きてきたのか?


生活も就職も商売も

いたるとこで利権の壁に阻まれ

自由のない閉塞状態


人々が困窮する中で

既得権に汲汲とする特権階級


そういったひどい国状を想像せざるをえなくなる



殺さなければ殺される

というところまで来てしまったということは

己があまりにも多くの人々を殺してきたからではないか?



人はどんなに苦しめられても

それだけで神さまのように慈悲深くなれるわけではない


だから

いま心を入れ替えて

これまでの罪をすべて告白しても

命が保障されるなどというわけではない



けれども

神さまはすべてをご存じだ


自分が犯した殺人や虚偽

敵対する人々の反撃やデマ

誰が何をごまかし隠し通そうとも

神さまがすべてを公平にはかりとりなす


そう信じることなしには

僕らはどうしたって

理想的な政治体制を求めることなんかできないじゃないか


リビアの夢はいったいなんなのか?


一刻も早く武器を捨て

神さまの御前に立ちかえってほしい



あけましておめでとうございます。



僕は

寒いわ雨降るわ

引っ越しやわ試験やわで

落ち着けない元旦でありますが

世の中にはもっとたいへんなお正月を迎えている人もいますね



列車が止まるわ

富士山で滑落するわ

教会が爆破されるわ

大洪水に見舞われるわ


お正月どころではない事態に遭うことは

誰にだって起こりうるのに

僕はこうして無事に新年を迎えることができたのですから

神さま仏さまに改めて感謝であります。



そして

たいへんな思いで今を過ごしているすべての人々が

救われ、癒されますように

亡くなられた方々の死が無駄になりませんように

お祈りしましょう。





さて

今年の抱負です。


今日はあまりにも寒くて寒くて頭痛になってしまいました。

寒いと頭痛になるんです。


そういえば子どもの頃は

校庭に雪が積もってみんな大喜びで遊んでいるときも

僕は寒くて寒くて遊び回れなかった


それでも

トレーニングのためしょっちゅう走っていた高校生のときは

元気で寒さに強かった


というわけで

今年は運動して体力をつけたいです

運動不足と食生活を見なおして

元気になる元年として

人生再出発の記念となる年にしたいと思います


今日、日経新聞の書評を読んだ。


クロサキ先生のエッセイはいつも読みやすくて楽しい。

写真を見るといつもタートルネックだ。


さすが哲学の先生で

興味は多岐にわたる。

何にでも縦横無尽に切り込む柔軟な頭をもってるみたい。

今は調べたいことがあれば

ネット検索すれば何でも知ることができるし

深く掘り下げるための必読書も

アマゾンなどでレヴューを読めば簡単に知ることができる。

そんなお話が書いてある。


でも

言外に言いたいことは

どんなに便利になって

誰でも知りたいことを簡単に知れるようになっても

その情報がネットにアップされるまでに整えられるには

専門家の仕事が必要不可欠だということだろう。


ITがどんなに発達しても

この部分を担う

学者の仕事は必ず残るだろう。



歴史研究一つとっても

発掘調査という専門性はどうしても必要で

費用対高価とは関係なしに公共財として

一定以上の費用をかけ続ける必要があるのかもしれない。


それほどわかりやすくなくても

歴史的事実のをどう評価するか?という議論についても

既出の資料の読み方しだいで

新説が産み出されることだってありうる。


あの改革は

本当に虐げられた新興勢力の正義の闘いだったのか?

既得権を握る旧勢力が不満分子を取り込むために起こしたクーデターではなかったか?

などいろいろと出てくる議論は

僕らが生きる現在の反映でもあり

これも学者さんたちがやるべき意義のある仕事だと思う。



学者さんの仕事というのは

一般には理解しがたいけど

誰かがやらないといけない部分なのだろう。


市場としては本来は大きくはないけれど

それでも質の低下をさけるために

多くの参加者が競争するのはいいことだ。


でも

戦後の日本社会は

慢性的に教育バブルじゃないかと思う。


勉強したいことがあるから大学に行くんじゃなくて

大卒でないと大きな会社に入れないから

親が無理して子どもを大学に行かしてきた。

今ではその学生が親になって

子どもたちを当然のように大学に行かせたりしている。


かつての経済成長とともに学費は値上がりして

大学が増えるに伴って大卒者が増え

大卒でないと就職が難しいという状況がつづいている。


大学に入って本当に勉強したいことがあるのなら問題はない

けれども実態はそうではないことは

ずっと大学で仕事している先生方がいちばんよく知ってるはず


大学でやりたいことはないけれど

将来のためにとりあえず行っておく

こうして高等教育に数百万円かけるという消費行動がデータとして蓄積され

マーケティングされた上で今日も大学が増え続ける


消費行動はつづいてカネは動きつづけるけれど

そこから産み出される価値は増えているだろうか?


上野千鶴子先生はかつて

学位が生産財ではなくて消費財になってしまっていると述べていた。


大学で授けられる学位は

新しい価値を生み出すために有効に機能しているだろうか?


もしも

学位が価値をあまり生み出すことなく

企業が採用のために利用するふるいとか

出会い系程度の消費財でしかないのであれば

そのために数百万円も投じる消費行動は

消費者の生き方にどんな影響を及ぼしているだろうか?


巨額のカネがまわりめぐるわりには

価値があまり生産されない市場の未来はどうなるのだろうか?


学者さんたちが仕事する中で動くカネは

他の業界で動く巨額なマネーに比べればささやかなものだろう。

出版社が学者を接待して飲み食いする費用なんてたかが知れている。


けれども

大学が消費者に及ぼす影響ははかりしれないんじゃないだろうか?


本当にほしいものを適正な価格で買うというのは簡単なことじゃない。

それこそ教育、学習する価値のあることじゃないだろうか

教育の場である大学が

消費者が自分が求めていると思えるものを

適正価格で提供することを通してこそ

教育上必要なことではないだろうか?



また

卒業しやすいというのも心配

簡単に卒業できてしまうというのでは

学位の価値を下げてしまうのではないか?


それでも志願者数はあまり減ることなく

学費を下げなくていいから

学位を簡単に授けるというのなら

学位の価値は学費の金額で計られるのだろうか?


このこともまた

巨額のカネが教育市場をめぐるけれども

その割りには価値が生産されてないんじゃないか?

という問題にかかわってくる。


学位がカネで買われてしまうことなく

毅然として品格を保ち

どんなに頑張っても一定レベルに達していなければ授けられず

どんなに優れていても努力が足りなければ与えられない

そのようなスタンスを堅持することによってこそ

目に見えない価値が消費行動に注ぎ込まれ

新しい価値が産み出されていく可能性を高めるのではないか?



僕はこんな心配をしているのだけれど

こうなっているのは今現在大学に勤めている人たちのせいではないだろう。

ずっと前からこうなっているのだから。


だから

改革が必要だと判断すれば

一世代分の期間は経過措置をとる必要があると思うし

そうでないとやりようがないだろう



公共のものとして必要な部分は税金で保護するにしても

その適正規模はどれくらいなのか?


大学間で健全な市場競争が展開されるには

政策でどのように仕掛ければよいだろうか?


学費から給与が振り込まれる大学教授が

そのような提言をするだろうか?


ヒモつきにされた御用学者なんて

もはや学者とは呼べないんじゃないか?



まだまだ

心配、疑問は尽きない


訊きたいことは

山積してるんだ。