①うつ病治す治療家になりたい。指名とれるマッサージ師になりたい。国家試験に合格したい
②やよい軒の新作定食食べるのだ
③昨日のアルカホー飲料は0ml
代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉が昨日有名になった。
代理ミュンヒハウゼン症候群というのは、身近な人に密かに毒を飲ませるなどして入院させておいて、人前では献身的に看護して、自分自身が周囲の同情を集める、という心の病い。
ミュンヒハウゼン症候群というのは、自分自身を傷つけたり、病気にしたりして、自分が同情を集める、という心の病い。
Wikipediaによると、アメリカでは増加傾向にあることが既に知られ、社会問題になっている。シュライヤー博士によると、代理ミュンヒハウゼン症候群の患者の25%が既にミュンヒハウゼン症候群を患っていて、患者が医学知識を豊富にもっていて巧妙に立ち回るため発見が困難というケースがあるそうだ。
こんな病気を知ったのは昨日が初めてだけど、病気とか不幸で同情を集めて心地よいと感じてしまうこと自体はいまや普通にあるだろう。たしか中学生の頃、同級生が先生に促されて皆に自分の持病を告白したとき、口の端に明らかに微笑を浮かべているのを見てとても驚いたのを覚えている。僕が中学生だったのは1982~1985年のことで、日本の社会、文化が非常に大きく変容しはじめたころだと言われている。
僕は、幼い頃に母親を亡くしたことで同情されることが中学生くらいまであった。しかし、僕が物心つきはじめた頃には既に母は癌で入院してたし、母が亡くなったとき僕はまだ5歳だったから人が亡くなるということがわからなかったと思う。それでも、葬儀の時、こういう時は悲しむものだということはわかったみたいで、悲しむ顔をちょっとつくってみたのを覚えている。だから、お母さんいなくて寂しいでしょうとか言われると、いいえ、そんなことはないですよ、と答えていた。妻を亡くした父はずっと嘆き悲しんでたし、9歳で母を亡くした姉も悲しんでいたし当時本人が思う以上に本当に困ってたと思う。けれども、僕は悲しむことも困ることもなかった。周りから見れば一見して不幸にみえるかもしれないけれど、僕自身は不幸ではないし、かわいそうと思われるのはおかしいと子ども心にずっと思ってきた。小二の時からはっきりそう意識している。
お父さんお母さんが揃っていない家庭の子どもは育ちが悪いという偏見は、今はないけど、昔はあった。僕が中学生くらいまではあったと思う。だから、親を亡くした子どもがかわいそうという同情は、そうした古い偏見に対する反発という側面もあったはず。小五くらいのときにそんなことを考えた覚えがある。
今では、両親が揃ってない家の子どもは育ちが悪いという見方はもはやない。それは偏見だからやめようということでなくなったというよりは、両親が揃ってない家庭で育った大人が増えて、あまりにもありふれたことになったからだと思う。育ちが悪いと言っては語弊があるけど、両親が揃っている環境で育ってない大人は、ちゃんと子どもを育てられる家庭環境を築くことが難しい、という見方まで否定することはない。してもらった体験がなければ、してあげるべきことを知らないのは当然なんだから、難しいという現状をちゃんと把握して、国、自治体、町ぐるみで乗り越えていく方策を立てる必要がある。偏見もかわいそうもへったくれもありゃしない。その手の議論や感動はもうとっくに古くなってる。
ここで、昨日判決が言い渡された事件をみると、三女、四女、五女とある。被告人は現在37歳で、2004~2008年に三女、四女、五女の点滴に異物を混入し、四女を生後8ヶ月で死亡させた疑いだ。ということは、被告人は35歳で既に少なくとも子どもを5人産んだことになる。細かい数字はここではどうでもいい。問題は、被告人がはじめから同情されることをあてにして子作りしているのではないか?と疑い得ることだ。僕は裁判員ではないし、法曹人でもないしマスコミ関係者でもないから、被告人の量刑について意見を言うつもりはない。かねて考察してきたのは社会、文化だ。言い換えれば、表象の問題。
ミュンヒハウゼン症候群という病気には同情を引くことに特徴があるけど、僕らみんなが抱く動機はそれだけじゃないはずだ。愛されたいから、評価してほしいから、気に入らないものを陥れるため、様々な目標に向かって意識的にも無意識的にも行動している。だから、代理ミュンヒハウゼン症候群を少し応用すれば、助け出して保護するフリをしながら、自分が助けなければいけない理由を維持するために水面下でイジメて、ダメージを与えつづけていたりする。こういうケースは実はたいして珍しいことではないだろう。夫婦や親子、兄弟姉妹、上司と部下、教員と助手などの関係でいくらでも見いだされるはず。ただし、指導上必要な負荷をかけることもあるから、見分けるのは本当に難しい。本人も無意識裏に勝手に口が動くようにイジメをしてしまうケースが多いだろう。
そして、勝手に動いてしまうルートに敷かれたレールになっているのが、リテラシーだ。幼くして親を亡くした子どもがかわいそうだと思うのも、難病を患う子どもを看病する親を健気だと評価するのも、リテラシーとして間違いなく「正しい」。そんなのたいしたことないよ、なんて言ったら大問題になる。だからこそ、定式化されたリテラシーの網の目を利用して、水面下でイジメがつづけられるのだし、子どもが殺される事件だって起きてしまう。
誰だって生まれた時は言葉を知らない赤ちゃんなんだから、常識的なリテラシーを崩してしまうわけにはいかない。けれども、子どもの頃に感動したのと同じものにふれて、子どもの頃と同じように感動することは本当はないはずなんだ。永い人生をぐるっと回ってきて同じところに帰り着く感動はあるけど、それは同じものではない。
文化みたいなことを考えてみよう。僕らは映画やドラマを観ていて、登場人物に感情移入することがある。愛と勇気のスペクタクル・アドベンチャーものであれば、主人公になりきって感動し、日常生活に戻っても勇気をもって生き抜こうと思える。
では、難病にかかった患者が病気と闘うというドラマや小説はどうだろう。感動的で、観ていて涙が止まらなくなる。検査の結果がんが見つかって落ち込んでいる人が観たら、勇気百倍、自分も負けていられない、余命がどんなに短くても、頑張って生きていこう、と思えるかもしれない。深刻な病気にかかってない人でも、自分は健康でいられるのだから、こんな生き方ではいけない、と思って人生の転機を迎えるかもしれない。しかし、もしも、健康的な人が難病を患う主人公に感情移入したらどうだろう?メディアに接して、主人公になりきった想像から得た感動を、日常に戻って応用することが普通になったらどんなことが起きるだろう?難病患者の闘いを描く作品自体にはぜんぜん問題ないけど、その影響については考えずにはいられなくなる。
文化は各種メディアを通じて世界中がつながるグローバルなものになって久しい。アメリカ人が日本映画を観て感動した時代は過ぎ去り、今は日本人が韓流ドラマに夢中になっている。近い将来には必ず、中国人が中国人向けにつくった映画やドラマに世界中が感動するだろう。そのとき、おそらく韓国人は、今の日本人と同じ戸惑いを覚えるだろう。かつて見たはずのものに感動できるのは、作り手が全身全霊で感動してるからだと思う。アメリカは移民国家である上に世界中から人材を集めて競争力トップを維持してるから、全身全霊で感動できる反応点がほぼ同じところで維持される部分と、成熟した表象の冒険とが同居して、ない交ぜになってるみたい。それらが同じ商品棚に陳列されている。
かつてみたもので元気になってもいい。自分が落ち込んでいるとき、子どもに戻って何にでも感動できれば、回復は早いんだから。でも、気に入らないだれかを陥れることを目標にして元気になるために感動を乱用するもんじゃない。自分を元気にしてくれた大好きな言葉を、自ら汚すことはない。
④
さわらの西京焼きおいしかった~
あんなおいしいさわら
食べたの初めてかもしんない。ありがたや~
⑤東京カベナント教会のメルマガより
私達が神の御心の中にいない時はなく、愛なしに過ごす時はなく
上からの良きもので祝福されていない時はありません
イエス様が2千年も昔に成し遂げたことが霊となって未だに尽きることなく僕ら一人一人の肉体に注がれているんだな。

②やよい軒の新作定食食べるのだ

③昨日のアルカホー飲料は0ml
代理ミュンヒハウゼン症候群という言葉が昨日有名になった。
代理ミュンヒハウゼン症候群というのは、身近な人に密かに毒を飲ませるなどして入院させておいて、人前では献身的に看護して、自分自身が周囲の同情を集める、という心の病い。
ミュンヒハウゼン症候群というのは、自分自身を傷つけたり、病気にしたりして、自分が同情を集める、という心の病い。
Wikipediaによると、アメリカでは増加傾向にあることが既に知られ、社会問題になっている。シュライヤー博士によると、代理ミュンヒハウゼン症候群の患者の25%が既にミュンヒハウゼン症候群を患っていて、患者が医学知識を豊富にもっていて巧妙に立ち回るため発見が困難というケースがあるそうだ。
こんな病気を知ったのは昨日が初めてだけど、病気とか不幸で同情を集めて心地よいと感じてしまうこと自体はいまや普通にあるだろう。たしか中学生の頃、同級生が先生に促されて皆に自分の持病を告白したとき、口の端に明らかに微笑を浮かべているのを見てとても驚いたのを覚えている。僕が中学生だったのは1982~1985年のことで、日本の社会、文化が非常に大きく変容しはじめたころだと言われている。
僕は、幼い頃に母親を亡くしたことで同情されることが中学生くらいまであった。しかし、僕が物心つきはじめた頃には既に母は癌で入院してたし、母が亡くなったとき僕はまだ5歳だったから人が亡くなるということがわからなかったと思う。それでも、葬儀の時、こういう時は悲しむものだということはわかったみたいで、悲しむ顔をちょっとつくってみたのを覚えている。だから、お母さんいなくて寂しいでしょうとか言われると、いいえ、そんなことはないですよ、と答えていた。妻を亡くした父はずっと嘆き悲しんでたし、9歳で母を亡くした姉も悲しんでいたし当時本人が思う以上に本当に困ってたと思う。けれども、僕は悲しむことも困ることもなかった。周りから見れば一見して不幸にみえるかもしれないけれど、僕自身は不幸ではないし、かわいそうと思われるのはおかしいと子ども心にずっと思ってきた。小二の時からはっきりそう意識している。
お父さんお母さんが揃っていない家庭の子どもは育ちが悪いという偏見は、今はないけど、昔はあった。僕が中学生くらいまではあったと思う。だから、親を亡くした子どもがかわいそうという同情は、そうした古い偏見に対する反発という側面もあったはず。小五くらいのときにそんなことを考えた覚えがある。
今では、両親が揃ってない家の子どもは育ちが悪いという見方はもはやない。それは偏見だからやめようということでなくなったというよりは、両親が揃ってない家庭で育った大人が増えて、あまりにもありふれたことになったからだと思う。育ちが悪いと言っては語弊があるけど、両親が揃っている環境で育ってない大人は、ちゃんと子どもを育てられる家庭環境を築くことが難しい、という見方まで否定することはない。してもらった体験がなければ、してあげるべきことを知らないのは当然なんだから、難しいという現状をちゃんと把握して、国、自治体、町ぐるみで乗り越えていく方策を立てる必要がある。偏見もかわいそうもへったくれもありゃしない。その手の議論や感動はもうとっくに古くなってる。
ここで、昨日判決が言い渡された事件をみると、三女、四女、五女とある。被告人は現在37歳で、2004~2008年に三女、四女、五女の点滴に異物を混入し、四女を生後8ヶ月で死亡させた疑いだ。ということは、被告人は35歳で既に少なくとも子どもを5人産んだことになる。細かい数字はここではどうでもいい。問題は、被告人がはじめから同情されることをあてにして子作りしているのではないか?と疑い得ることだ。僕は裁判員ではないし、法曹人でもないしマスコミ関係者でもないから、被告人の量刑について意見を言うつもりはない。かねて考察してきたのは社会、文化だ。言い換えれば、表象の問題。
ミュンヒハウゼン症候群という病気には同情を引くことに特徴があるけど、僕らみんなが抱く動機はそれだけじゃないはずだ。愛されたいから、評価してほしいから、気に入らないものを陥れるため、様々な目標に向かって意識的にも無意識的にも行動している。だから、代理ミュンヒハウゼン症候群を少し応用すれば、助け出して保護するフリをしながら、自分が助けなければいけない理由を維持するために水面下でイジメて、ダメージを与えつづけていたりする。こういうケースは実はたいして珍しいことではないだろう。夫婦や親子、兄弟姉妹、上司と部下、教員と助手などの関係でいくらでも見いだされるはず。ただし、指導上必要な負荷をかけることもあるから、見分けるのは本当に難しい。本人も無意識裏に勝手に口が動くようにイジメをしてしまうケースが多いだろう。
そして、勝手に動いてしまうルートに敷かれたレールになっているのが、リテラシーだ。幼くして親を亡くした子どもがかわいそうだと思うのも、難病を患う子どもを看病する親を健気だと評価するのも、リテラシーとして間違いなく「正しい」。そんなのたいしたことないよ、なんて言ったら大問題になる。だからこそ、定式化されたリテラシーの網の目を利用して、水面下でイジメがつづけられるのだし、子どもが殺される事件だって起きてしまう。
誰だって生まれた時は言葉を知らない赤ちゃんなんだから、常識的なリテラシーを崩してしまうわけにはいかない。けれども、子どもの頃に感動したのと同じものにふれて、子どもの頃と同じように感動することは本当はないはずなんだ。永い人生をぐるっと回ってきて同じところに帰り着く感動はあるけど、それは同じものではない。
文化みたいなことを考えてみよう。僕らは映画やドラマを観ていて、登場人物に感情移入することがある。愛と勇気のスペクタクル・アドベンチャーものであれば、主人公になりきって感動し、日常生活に戻っても勇気をもって生き抜こうと思える。
では、難病にかかった患者が病気と闘うというドラマや小説はどうだろう。感動的で、観ていて涙が止まらなくなる。検査の結果がんが見つかって落ち込んでいる人が観たら、勇気百倍、自分も負けていられない、余命がどんなに短くても、頑張って生きていこう、と思えるかもしれない。深刻な病気にかかってない人でも、自分は健康でいられるのだから、こんな生き方ではいけない、と思って人生の転機を迎えるかもしれない。しかし、もしも、健康的な人が難病を患う主人公に感情移入したらどうだろう?メディアに接して、主人公になりきった想像から得た感動を、日常に戻って応用することが普通になったらどんなことが起きるだろう?難病患者の闘いを描く作品自体にはぜんぜん問題ないけど、その影響については考えずにはいられなくなる。
文化は各種メディアを通じて世界中がつながるグローバルなものになって久しい。アメリカ人が日本映画を観て感動した時代は過ぎ去り、今は日本人が韓流ドラマに夢中になっている。近い将来には必ず、中国人が中国人向けにつくった映画やドラマに世界中が感動するだろう。そのとき、おそらく韓国人は、今の日本人と同じ戸惑いを覚えるだろう。かつて見たはずのものに感動できるのは、作り手が全身全霊で感動してるからだと思う。アメリカは移民国家である上に世界中から人材を集めて競争力トップを維持してるから、全身全霊で感動できる反応点がほぼ同じところで維持される部分と、成熟した表象の冒険とが同居して、ない交ぜになってるみたい。それらが同じ商品棚に陳列されている。
かつてみたもので元気になってもいい。自分が落ち込んでいるとき、子どもに戻って何にでも感動できれば、回復は早いんだから。でも、気に入らないだれかを陥れることを目標にして元気になるために感動を乱用するもんじゃない。自分を元気にしてくれた大好きな言葉を、自ら汚すことはない。
④
さわらの西京焼きおいしかった~
あんなおいしいさわら
食べたの初めてかもしんない。ありがたや~⑤東京カベナント教会のメルマガより
私達が神の御心の中にいない時はなく、愛なしに過ごす時はなく
上からの良きもので祝福されていない時はありません
イエス様が2千年も昔に成し遂げたことが霊となって未だに尽きることなく僕ら一人一人の肉体に注がれているんだな。