2月から5月にかけての日記にざっと目を通してみた
牧師目線で読んでみた
2~3月はまじめに聖書日課についていってる
我ながら、つたなくて健気でかわいく見える
映画「チェンジリング」の感想では
闘う牧師のことをおもいっきり賞賛してる
4月9日の日記に寂聴さんの「堕落論」について記事を書いてる
夫と幼い娘を捨てて文学の道に飛び込んだという過去をむしろバネにして書いてきたというお話
4月末頃には自分の肝臓をよくしていきたいということでマリアアザミの記事を書いた
父がタバコを吸って部屋に雲が浮いてるみたいと書いたのはまずかった
思い出してみると、牧師の夫は家の中でタバコ吸ってるのだ(ちゃんと換気扇の前でだけ)
だからマリアアザミの記事は牧師にとってはサインに違いないと思えたわけだ
4月2日にお詫びを書き、3日に説明を述べたけど
牧師にしてみれば、高揚した感情はそう簡単には収まらない
今にして思えば、無理もないことかと思う
2月頭からリスクを負いながらも聖書日課メールを送りつづけてくれたのだ
気負うのは当たり前すぎることだ
そこから走り続けて受け入れられない過去を積み上げてしまったことを咎めることができるだろうか?
同じシチュエーションにあって、同じ状況に直面して
同様な思い込みをしない人が、果たしてどれだけいるだろうか?
それに
リスクを承知で僕にかかわってくれている人のことを
僕はもっと気にかけて意識してブログを書いてしかるべきだった
あれだけ血湧き肉躍るほどに勇ましい記事を書き
運命を共にするかのような発言をしていたんだから
牧師から見れば、僕の発言はすべて自分のことがちゃんと意識されているに違いないと
そう思っても無理もないことなのだ
こう考えると、本当に申し訳なく思う
たいへんなことに巻き込んでしまって本当に申し訳ない
そして、イエス様に紹介してくれて、本当にありがとう
この感謝は決して忘れることがない
この関係は誰の目からみても明らかで疑いようもない証であり
モデル不明の物語として後世に語り継がれるであろう