今日は「慰霊の日」
 
アジア太平洋戦争で国内最大の地上戦となった沖縄戦
 
日本で唯一住民が地上戦に巻き込まれた沖縄戦
 
3ヶ月におよぶ激戦で日米双方あわせて死者20万人以上
 
あまりにも多くの犠牲者を悼む日なのだ
 
 
 
日経新聞夕刊によると
 
 
沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和記念公園では
 
強い日差しの下、戦没者の名前を刻んだ「平和の礎(いしじ)」のまわりで
 
多くの遺族らが鎮魂の祈りを捧げた
 
 
 娘2人、孫と礎に花を手向けた豊見城市の赤嶺豊子さん(74)は親族10人以上が犠牲に。「夜、避難先の納屋で空襲に遭い、気が付くと姉と弟が倒れていた。動かない2人を何度も呼ぶ母の声が耳から離れない」と声を震わせた。毎年、この日に一緒に来ていた夫は昨年他界。「戦争の悲惨さを伝えるのに私に残された時間はわずか。娘や孫に私の記憶を焼き付けたい」と決意を語った。
 
「生きていれば、もっと語り合えたのに」。鹿児島県のトカラ列島に向かう船が撃沈され帰らぬ人となった兄の名を呼び、沖縄県浦添市の中山興健さん(82)はおえつを漏らした。終戦後は小学校教師として平和教育に力を入れた。「戦争はあってはならない。これからもこの言葉を繰り返すだけ」と静かに話した。
 
 糸満市の浦崎健一さん(68)は防衛隊所属の父が戦死。幼かった浦崎さんは県北部に非難して生き延びたものの父の顔さえ覚えておらず「ただただ、悲しい」。今年1月、糸満市の工場現場で起きた不発弾事故にもショックを受けた。「沖縄に不発弾がある限り、戦争は終わってないと改めて感じた」と話した。
 那覇市の川上喜順さん(65)は孫3人を連れ、礎に刻まれた戦没者の名前を順番に読み聞かせた。父、祖父母ら親族6人がフィリピン周辺の戦闘や栄養失調で命を落とした。1歳だった川上さんは県北部に非難、重度の栄養失調で4歳になるまで歩けなかった。「生き延びるのに必死だった」と当時を振り返り、「孫たちに礎を訪れる遺族の方々を見せ、少しでも平和の尊さを感じてほしい」と願う。
 
 
 
毎日新聞朝刊では
 
 
「白梅学徒隊」で救護経験
 
 尼崎市の特別養護老人ホーム「園田苑」に、「白梅学徒隊」の一員として兵士の救護に当たった経験をもつ女性(83)が入所している。女性は淡々とした話しぶりながら「戦争がこびりついて、(頭から)離れない」と、64年間続く苦悩を語った。
白梅隊は、沖縄県立第二高等女学校の生徒らで結成された隊。「ひめゆり学徒隊」(第一高女などで構成)などと同様、陸軍病院や野戦病院に動員された。
 白梅隊の仕事は、野戦病院での兵士の救護だった。一日にどれくらいの兵士が運ばれてきたかは「分からない」。それほどひっきりなしに、傷病兵が病院に運ばれてきた。中には幼い子供の写真を握りしめたまま亡くなった兵士もいた。「子供が生まれる前に沖縄に来て、写真でしか自分の子供を見てなかったと思う」
 戦禍が野戦病院に及ぶと、女性はガマ(洞くつ)へ移動。白梅隊も個別行動になり、散り散りになった。「みんな元気かなあ」。ガマで友人と話をしていたある日、友人の一人が爆弾の破片を胸に受け、出血多量で亡くなった。女性も右太ももを負傷、傷跡は今も残る。
 今も女性の脳裏をかすめるのは、ある日ガマに響き渡った陸軍中尉の軍歌だという。やたらと大きく、太い声にガマ中が「何事か」と騒然としたが、歌がやむと、切腹した中尉の遺体が転がっていた。「死ぬときに歌を歌う人を初めて見た」。以来、沖縄戦のことを思い出すたび、女性の耳には中尉の軍歌がよみがえる、という。
 女性は体が弱り、一人での外出は難しくなった。ホーム職員の大上茂利さん(35)は、第二高女の同窓会に一昨年と昨年同行、ガマも訪れた。女性は銃撃があった場所や白骨遺体を目にした場所などを詳しく覚えていたといい、大上さんは「これほどはっきりと記憶に残るほどの戦争があったのか」と思うと、自然と鳥肌が立ったという。
 
 
 
西日本新聞夕刊によると
 
 
 沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園で、県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が営まれ、遺族や麻生太郎首相ら約5000人が参列。日米合わせて20万人を超えた地上戦の犠牲者の冥福を祈った。
 
 沖縄では今年1月、戦時中の不発弾が爆発し、2人が負傷した。戦後64年がたっても県内の地中には不発弾が2300トンも眠り、処理に80年以上が必要とされる。
 
 23日は日本軍司令官の自決で沖縄戦の組織的戦闘が終結した日とされる。式典には河野洋平、江田五月衆参両院議長らも出席し、正午に全員で黙とう。遺族代表が追悼の言葉を述べ、仲井真弘多(ひろかず)知事が平和宣言で「戦後64年にもかかわらず沖縄には米軍基地が集中し、派生する事件・事故が絶えないばかりか今でも不発弾に県民は不安に感じている」とした上で「平和な未来を築いていくことが県民に課せられた大きな責務であり使命」と決意を語った。
 
 沖縄県南城市の大里北小6年、比屋根憲太君(11)が平和の詩を朗読した。
 
「こんなおだやかな沖縄に/戦争は似合わない/祖母のくしゃくしゃな涙も/似合わない」
 
 
 就任後、初めて参列した麻生首相は基地問題に触れたが「県民の負担軽減に向け、地元の切実な声をうかがいながら全力を挙げて取り組む」と述べるにとどまった。
 
 県内外、国籍を問わず沖縄戦の戦没者などの名を刻む同公園の「平和の礎(いしじ)」には今年123人が加わり、総数24万856人。うち九州・山口出身者は1万6110人。
 
●ワードBOX=沖縄戦
 
 国内最大の地上戦。太平洋戦争末期の1945年4月、米軍は沖縄県の慶良間諸島に続いて本島中部に上陸。艦砲射撃など、激しい攻撃を受けた日本軍は首里(那覇市)の司令部を放棄して本島南部へ撤退。自然の壕(ごう)に避難していた住民が巻き添えとなった。県民の4人に1人が死んだとされる。各地で日本軍による食料強奪や住民虐殺、住民の「集団自決」も起きた。米軍に占領された沖縄は1972年まで日本に復帰できず、在日米軍基地の75%が今も沖縄にある。
 
 
 
●「64年間ずっと苦しい」「どんな理由でもダメ」
 
 米軍が「地獄のようだ」と表現した激烈な地上戦の生存者や遺族たちはそれぞれの慰霊の場で、無念の死を遂げた家族や友に祈りをささげた。北朝鮮の核実験があった今年、国内では「核保有論」や「敵基地攻撃論」の議論も噴出している。平和を願う沖縄の人たちは何を思い、この日を迎えたのか。
 
 「一緒に逃げた母に銃口が向いた」。同県南城市の大城春子さん(78)は、戦没者の名を刻む「平和の礎(いしじ)」にある母と兄の名前を指でなぞって汚れを落として言った。兄は県外で戦死、母は沖縄戦で防空壕(ごう)から飛び出した際に米兵に撃たれた。「優しかった母と兄を奪った戦争が憎い」
 
 母と兄、妹を失った仲田美代子さん(82)=同県うるま市=は「母がいた家に爆弾が落ちたんです。64年間ずっと苦しく悲しかった」と目を赤くした。
 
 「どんな理由でも戦争はしてはいけない」。糸満市中心部から、平和祈念公園までの「平和祈念慰霊大行進」に参加した岡部千代子さん(65)=福岡県柳川市=は1歳のころ、海軍兵だった父親を沖縄戦で亡くした。
 
 2度の核実験を行い、今も弾道ミサイルの発射準備を進めているとされる北朝鮮に向けて、沖縄の米軍基地からは偵察機が頻繁に飛び立っている。「一部の権力者のせいで愚かな戦争が繰り返される。犠牲になるのは父のような人なんです」
 
 沖縄戦で千数百人が動員され、半数以上が戦死したとされる「鉄血勤皇隊」。同隊に担任教諭が召集されたという由井晶子さん(75)=那覇市=は、激戦地だった沖縄本島南部にある「健児の塔」に供養に訪れた。由井さんは「今の日本も戦争に向かいつつあるのでは。先生にどう報告したらいいのでしょうか」と話した。
 
 
 
18日の琉球新報によれば
 
 
【南城】「ぼくは車イスをおして 祖母のいのりを引きつぐ 戦争のない平和な国を」―。「慰霊の日」の23日に開催される沖縄全戦没者追悼式で、詩「平和のいのり」を朗読する比屋根憲太君(11)=大里北小学校6年。祖母から聞いた沖縄戦の話を基にまとめた詩には、平和を伝えることへの強い決意が素直な言葉で表現されている。
 詩や作文を書くのが得意な比屋根君。学校の宿題で平和についての詩を書くようにといわれ、小学4年生の慰霊の日、平和の礎の前で祖母の金城好子さん(80)が話してくれた沖縄戦の話を思い出し、書き上げた。
 比屋根君はその日、好子さんのあごや腕に残る傷あとが戦争によるものだということ、好子さんに姉がいて戦死していたことを初めて知った。「戦争で家族を失った人は60年以降も悲しみを引きずっている。戦争という文字を国語辞典から消してほしいと思った」。その時は声を上げて泣きながら、好子さんの背中をさすり続けた。
 大好きなおばあちゃんの思いを引き継ぐため「将来、自分の子供にも戦争の話を聞かせたい」と話す比屋根君。好子さんは病気のため追悼式には出席できないが「亡くなった人に『大変だったね』という気持ちを伝えたい」と決意を語った。
 
 
 
毎日新聞によると
 
 
 酸鼻を極めた地上戦から64年。沖縄には県面積の1割以上、約2万3300ヘクタールの米軍基地が存在する。ほとんどは米軍専用施設で、全国の74.2%が沖縄に集中する。一方、今年1月には糸満市で不発弾が爆発し2人が重軽傷を負った。不発弾は3000トン近くが残ると推定されており、戦争の負の遺産は今も重くのしかかる。
 
 麻生首相は式典で不発弾事故被害者への見舞いの言葉を述べたうえで「県民の不安を解消すべく引き続き不発弾対策を着実に推進する」と話した。基地問題については「県民の負担軽減に向け全力で取り組む」としたが、政府と沖縄で滑走路建設位置の交渉が続く米軍普天間飛行場移設には触れなかった。
 
 仲井真弘多(なかいまひろかず)沖縄県知事はこれに先立つ平和宣言で「依然として沖縄には広大な米軍基地が集中し、事件・事故が後を絶たないばかりか、今でも地中に残る不発弾に県民は危険にさらされている」と述べ、基地の整理縮小と不発弾の早期処理の必要性を強調した。沖縄県は不発弾探査の全額国負担を求めているが、実現していない。
 
 公園内にある犠牲者名を刻んだ平和の礎(いしじ)には今年、123人の名前が追加刻銘された。95年の設置以降、追加刻銘は年々減少しており、今年は初めて海外の刻銘者がなかった。総刻銘者数は24万856人。
 
 ●仲井真弘多沖縄県知事の平和宣言
 
 私たちの愛する郷土沖縄は、苛烈(かれつ)を極めた地上戦の場となり、20万人余りの尊い命が失われた。私たちはこの悲惨な体験から戦争の愚かさ、命の尊さ、平和の大切さという教訓を学んだ。戦後、私たちは焼け野が原から立ち上がり、懸命に復興に取り組んできた。
 
 しかし、戦後64年を経たにもかかわらず、依然として沖縄には広大な米軍基地が集中し、そこから派生する事件・事故が後を絶たないばかりか、今でも地中に残る不発弾に県民は危険にさらされ、不安を感じている。
 
 県民の目に見える形での負担を軽減するため、日米両政府に基地の整理縮小や日米地位協定の見直しを今後も粘り強く訴え、不発弾の早期処理についても政府と連携して取り組んでいく。
 
 慰霊の日にあたり、すべての戦没者の御霊(みたま)に哀悼の誠をささげる。沖縄戦の実相と教訓を胸に刻み、平和を愛してやまない「沖縄のこころ」を礎に、恒久平和の確立を目指し、県民の英知を結集し、ここ沖縄の地で全力でまい進することを宣言する。
 
 ●麻生首相のあいさつ
 
 戦没者の御霊(みたま)に対し、謹んで哀悼の誠をささげる。沖縄は一般住民を巻き込んだ苛烈(かれつ)な戦場となり、20万人もの尊い命が失われた。悲痛の念を禁じ得ない。
 
 沖縄は戦後、県民の努力により多くの困難を乗り越え、力強い発展を遂げた。我が国において最も出生率が高く、最も平均年齢が若く、アジアとの懸け橋として成長力を秘めた県でもある。政府として引き続き沖縄の振興に力を尽くす。
 
 1月、糸満市で不発弾事故が発生した。被害に遭われた方々に改めて心よりお見舞い申し上げる。沖縄の地に、いまだ多くの不発弾が埋没していることを心に刻まねばならない。「不発弾等対策安全基金」を設置したが、引き続き不発弾対策を着実に推進する。
 
 また米軍施設の集中は、県民の大きな負担となっている。負担軽減に向け、地元の切実な声をうかがいながら全力を挙げて取り組む。
 
 日本の平和と繁栄が、戦没者の尊い犠牲の上に築かれていることを私は忘れたことはない。再び戦争の惨禍を繰り返してはならない。
 
 
 
琉球新報電子版では
 
 
沖縄戦で父親を亡くした前原八重子さん(65)は、激戦地だった糸満市米須の「魂魄の塔」を初めて訪れ、「やっとここで手を合わせることができた。『待たせてごめんね』と心の中で祈った。胸がいっぱい」と声を詰まらせていた。
 
 
 
22日の琉球新報によると
 
 
●あす「慰霊の日」 5大学1129人、3割「由来知らない」
 
 23日の「慰霊の日」を前に琉球新報社は16日から4日間、県内4年制総合5大学の学生(1129人)を対象に沖縄戦について知識や意識を問うアンケートを実施した。その結果、沖縄戦を学ぶことは99・4%が「大切」と答えた一方、牛島満司令官が自決した日として定められた「慰霊の日」の由来を「知らない」と答えた学生が29・4%に上ったほか、今年は沖縄戦終結から何年かとの質問で「64年」と正しく回答できたのは61・6%にとどまった。
沖縄戦の体験継承に関心や意欲が強い一方で基礎的知識に課題があることが浮き彫りになった。
 高校歴史教科書の「集団自決」の記述から「日本軍の強制」が削除された問題について、県内出身者と県外出身者の意識に差があることも分かった。
 日本軍による住民虐殺があった事実は86・8%、学徒動員は92・8%の学生が知っていると答えた。学徒隊の名前を一つ挙げることができた学生は76・0%で、ほとんどが「ひめゆり」を挙げた。
 住民の「集団自決」はどのような死かを問うと「日本の軍事体制下で米軍への投降を許さない、追いつめられた死」を選んだ学生は83・6%、「国のために自ら命を捧げた美しい死」は4・4%、「分からない」5・2%、その他6・3%。
 「日本軍の強制」が削除された問題を知っているのは90・4%、削除は「正しくない」との回答は81・8%に上った。「正しい」は2・8%。「分からない」が14・2%いた。
 県内、県外の出身別でみると、県外出身者は「集団自決」を「―美しい死」と回答した割合が8・1%と県内3・8%よりも高く、歴史教科書問題を知らないと回答した割合も県外は27・4%で、県内6・4%よりも高かった。「日本軍の強制」削除は「正しくない」は県外65・9%で、県内84・3%よりも低かった。
 沖縄戦を学ぶことは「とても大切」88・1%、「ある程度大切」11・2%とほとんどが「大切」と回答。沖縄戦について小中高校の授業で学んだことがある学生は91・9%、戦跡や平和資料館に行ったことがある人も95・2%と多かった。
 調査は5大学の教員に協力を依頼し、講義の際、学生に回答してもらった。
 
◆識者分析 新城俊昭氏「意識高いが知識伴わず」
 
 「沖縄戦が終わって何年か」との質問に正答が約6割というのは気になる。8割は超えてほしかった。一方で沖縄戦を学ぶことが大切との回答99%はかなり高い数値だ。現代の若者は一般に言われるほど沖縄戦に無関心ではない。むしろ素直な気持ちで沖縄戦から平和の在り方を学ぼうとする姿勢がうかがえる。意識は高いが知識がそれに伴っていないのが実情だ。平和教育の在り方や教える内容に問題がありそうだ。生徒の実態に合った、体系立てた学習を工夫する必要がある。
 毎年6月は特設授業で、演劇や映画鑑賞、戦争体験者の講演などが実施されているが、近年、こうした学習法もマンネリ化し新たな平和教育の在り方が求められ、内容も問われている。
 1995年、2000年に高校生を対象にしたアンケートでは戦跡・平和資料館に行ったことのある生徒はほぼ半数だった。それが05年は94・5%と大幅に増え、今回のアンケートでも95・2%と高い。おそらく、多くの学校が総合的学習の時間に平和学習を取り入れ、学年単位で戦跡・資料館巡りをするようになったのだろう。07年の教科書検定問題による沖縄戦への関心の高まりも一因だ。
 沖縄戦をじかに語れる世代は急速に減少している一方で沖縄戦研究は大きく進歩し、県平和祈念資料館や対馬丸記念館の建設、ひめゆり平和祈念資料館のリニューアル、各市町村の戦争体験記刊行など沖縄戦を継承するための未来への環境作りは着実に進んでいる。これからの平和学習はこれら戦争遺跡や資料館に何を語らせるかが大きな課題だ。
 教科書から「日本軍の強制」が削除されたことは「正しくない」との回答が県内出身者より県外が大きく下回ったのは気になる。単に沖縄戦への認識が足りないというより、15年戦争への歴史認識そのものに違いがあるように思える。だからこそ教科書で沖縄戦の真実をきっちり記述する必要がある。
 (沖縄歴史教育研究会代表)
 
 
 
19日の琉球新報によると
 
 
【南城】南城市玉城糸数区(當山晃区長)は17日、同区にあるアブチラガマ(糸数壕)の慰霊碑にさい銭箱を設置した。今年3月、慰霊碑のさい銭箱が盗難に遭い、同区が被害届を出していた。當山区長は「区民の要望で再び設置した。大事にしていきたい」と慰霊碑に手を合わせた。同区では今年から、「慰霊の日」の23日に慰霊祭を行う。
 沖縄戦時、アブチラガマ周辺では約200人の住民が亡くなった。1948年、住民の手によってつくられた慰霊碑には、今でも多くの住民や観光客、修学旅行生が訪れる。
 盗難に遭ったさい銭箱は、沖縄戦時、アブチラガマで九死に一生を得て以来、糸数区の住民と交流を続ける元日本兵の日比野勝廣さん(85)=愛知県=から贈られた費用で作製したもの。岩盤に固定したナットを外して持ち去られていたため区民からは「考えられない」とショックを受けた。
 区では「再び設置を」との声を受け、5月の評議委員会で区の予算での設置を決定。同区で愛地工業所を経営する大城清久さん(56)が作製し、セメントで岩盤に固定した。 
 同区では高齢化などのため今年から、23日に慰霊碑で慰霊祭を行う。これまでアブチラガマの聞き取り調査を続けてきた区相談役の知念信夫さん(75)は「これからも真実を伝えていきたい」と話した。
 
 
 
18日の琉球新報によると
 
 
●学徒慰霊祭それぞれのバトン 若い世代で復活も
 
 沖縄戦から64年。戦没者を学校単位で祭る慰霊塔では遺族や同窓生の高齢化が進み、取りやめになる慰霊祭がある一方、若い世代の尽力で復活する慰霊祭もある。2006年を最後に開催されていなかった沖縄師範健児之塔の合同慰霊祭は09年、若い世代の遺族やボランティアが中心となり復活する。「戦後100年まで続けていきたい」と先輩たちから受け取った思いを受け継いでいく。県立農林学校同窓会(古堅宗光会長)は23日付で解散、同日最後の慰霊祭を開く。中止に対し会員は「活動を継いでくれる人がいれば」と悔しさをにじませるが、慰霊塔は今後、嘉手納町が管理し、同窓会の志を継ぐ。
 
師範隊/34歳決意、今年復活「戦後100年まで」
 沖縄師範学校男子部の戦没者を祭る沖縄師範健児之塔での慰霊祭は遺族の高齢化で06年を最後に中止され、以降は自由参拝になっていた。
 慰霊祭の復活は仲田英安さん(34)が中心になって企画した。沖縄師範学校に通っていた伯父の安吉さんが沖縄戦で犠牲になったことから、仲田さんは、子どものころから慰霊祭に参加しており「伯父の墓はないので塔はお墓代わり。慰霊祭が唯一の接点だった」という。中止を知り、後を受け継ぐ人がいないことを残念に感じていた。唯一だった伯父との接点を求め、復活に向けて動き始めた。
 個人的な思い入れから動き始めた仲田さんだったが「遺族会は苦渋の決断で慰霊祭を中止したのに、個人的な思いで再開していいのか」と悩んだ。そこで昨年の慰霊の日に参拝に訪れた同窓生や遺族にアンケートを実施したところ、復活を望む声がほとんどだった。
 同校同窓生の玉城政文さん(80)=宜野湾市=も「若い人たちが自分たちの鎮魂の思いを受け継いでくれることはうれしいことだ。できる限り協力したい」と後押しした。
 参列者の香典などでテント代などの経費を賄うが、慰霊祭を継続し塔を維持管理していくには資金などの課題も残る。「意識は世代間で引き継ぐことができるはず。自分たちもいずれ次の世代に引き継ぎたい」と話す。「慰霊祭が途切れず続けられるのは平和な時代が続いていること。戦後100年まで続けたい」。仲田さんは“鎮魂の思い”というバトンを先輩たちから受け取った。
 
農林隊/同窓会は解散 嘉手納町管理
 【嘉手納】会員の高齢化を理由に6月23日の慰霊の日に解散する県立農林学校同窓会(古堅宗光会長)は17日、嘉手納町役場を訪れ、同窓会が嘉手納中学校敷地内などに所有している農林健児之塔などの土地・物件すべてを寄付した。
 古堅会長は「われわれが管理してきた建物などをきちんと管理してほしい」と述べ、宮城篤実町長に目録を手渡した。
 同校は1902年、甲種国頭郡各間切島組合立農学校として発足した。11年に県立農学校、23年に県立農林学校に改称され、45年に沖縄戦で校舎が全焼し、43年間の歴史に幕を閉じた。同窓生は3300人。
 古堅会長は「同窓会は後継者がいないので解散するが、町が管理すると聞き安心した。力の続く限り町が実施する慰霊祭に参加する」と話した。同窓生の1人で名桜大学の瀬名波栄喜学長は「農林学校で過ごした1年は10年分に匹敵するほど密度の濃いものだった」と振り返った。
 宮城町長は「責任をもって町が引き継ぐ。同窓会の熱い志も町民に伝えていきたい」と話した。
 
 
 
22日の西日本新聞によると
 
 
 鹿児島県沖縄戦没者慰霊祭が21日、鹿児島市草牟田2丁目の県護国神社であった。遺族や元兵士など約150人が集まり、沖縄戦で亡くなった県出身の兵士2582人の冥福と平和を祈った。

 慰霊祭は沖縄戦が終わった6月23日の「沖縄慰霊の日」を前に、県沖縄戦没者慰霊会が毎年開催。父親が兵士として沖縄戦に参加し、帰還したという池田穣会長(74)は「今日こそ、戦争の悲惨を忘れることなく次の世代に語り継がなければならない」と誓った。その後、参列者が玉ぐしをささげた。
 
 
 
21日の琉球新報によると
 
 
●平和教育の今 継承 多様な試み
 
 戦後64年を迎え、平和教育を実践する学校では校長以下すべて戦後生まれの教員が教壇に立つようになった。平和教育は県教育委員会が継続して教員研修のカリキュラムに取り入れているわけではなく、個々の教員に委ねられているのが現状だ。教員からは体験していない戦争を伝えることの難しさ、多忙化で準備がままならない現状を訴える声もある。その一方、体験者らと連携して学校へ語り部を派遣する取り組み、劇を通して平和と人権を考える授業を実践する学校など新たな方向性を模索する動きもある。試行錯誤する平和学習の今を紹介する。
 
 県内の小中高校では毎年、慰霊の日を迎える5、6月を中心に、平和教育を展開している。沖縄戦体験者による講演会や企画展示、戦跡巡り、平和集会のほか、劇やダンスなど学校の特色を生かした取り組みもあり、子どもたちが戦争や平和、命の大切さを学び、考えを深める機会になっている。一方、戦後生まれの教員からは、自らが体験していない戦争を伝えることの難しさや「総合的な学習の時間」の減少などによる平和教育の縮小を懸念する声も聞こえてくる。
 小中学校の平和教育については2008年度、小学校の94・9%、中学校の91・6%が何らかの取り組みをしており、実施は5、6月に集中している。
 県立高校の08年度慰霊の日に関する取り組み状況によると、授業の中で取り組んだ学校は全60校中34校で、地理歴史や総合的な学習の時間を活用するケースが多かった。ホームルーム活動を活用した学校は42校。講演会は33校、戦跡巡りは30校、映画・演劇鑑賞は23校が実施した。
 県教育委員会は1993年に「平和教育の手引き」、94年に資料集「平和教育関連施設マップ」、2008年には「高等学校における沖縄戦の指導案事例集」を発行。高校教諭については数年前から、初任者研修で平和祈念資料館での半日研修を導入するなど、平和教育を支える取り組みを実施してきた。
 大半の学校には「平和(教育)委員会」などがあり、担当教員らが中心となって慰霊の日の行事や取り組みなどを進めている。しかし、教員の意識や力量に委ねられている現状もあり、ある教員は「平和教育は独学しかない。ちゃんと教えられる教員は少なく、教員間の差が大きい」と指摘する。
 一方、小中高とも「ゆとり教育」の転換に伴う学習指導要領の改定で、「総合的な学習の時間」が縮小することが決まった。小学6年の場合、現行の年間110時間から最終的には70時間になる。完全実施は小学校は11年度、中学校は12年度、高校は13年度だが、小中については移行期間として本年度から縮小が始まっている。
 
 
 
21日の毎日新聞朝刊によると
 
 
●14歳で体験 大正区の集会で、集団自決の劇も
 
 沖縄慰霊の日の23日、大阪沖縄県人会連合会の真栄田(まえだ)義弘会長(78)=堺市南区=が、大阪市大正区である集会で沖縄戦の体験を語る。当時14歳。戦火に追われ、死と隣り合わせの日々に付けた日記を戦後、冊子「少国民の戦争記録」にまとめた真栄田さんは「多くの犠牲の上に築かれた平和の尊さを学んでほしい」と話している。
 
 戦端が開かれた1945年3月23日。沖縄県国頭(くにがみ)村の国頭国民学校(現辺土名(へんとな)小)の卒業式は中止になった。総代で読むはずだった答辞は、「我等(われら)の行手(ゆくて)は『社会だ』」を「決戦場だ」などとする教師の直しが入っていた。
 両親と弟妹の6人で山奥の避難小屋で息を潜め、深夜に命がけで食料調達に走り回った。一瞬目が合った米兵が銃を乱射する中、林のくぼみで息を殺す。食用にするソテツを採っている時、近くで砲弾がさく裂した--。そんな出来事を鉛筆でメモや絵にした日記と答辞の原稿を、ショルダーバッグに入れ肌身離さず持っていた。
 6月23日に組織的戦闘が終わったとされることは全く知らなかった。1カ月後に投降するまで逃げ続けていたからだ。「米軍が圧倒的に支配する現実に『日本は負けない』と信じる者は誰もいなかった。地獄の日々を生き抜くことだけだった」と振り返る。
 戦後、教師となり、沖縄の本土復帰前に堺市に移った。中学校長だった82年、同小100周年記念行事で37年遅れの卒業式が行われることになり、保管していた答辞と冊子に編んだ日記を学校に寄贈。新しく書いた答辞でこう強調した。「歴史への単なる回顧ではなく、繰り返してはならない歴史の教訓としての式です」
 集会は午後7時、大正区役所近くの大阪沖縄会館。京都の演劇グループ「まぶいの会・京都」が、集団自決など住民の証言などで構成した劇「肝苦(ちむぐ)りさぁ沖縄(うちなぁ)」も上演される。主催の実行委員会は「戦争体験者とそれを語り継ぐ戦後世代、沖縄と本土の二つの視点から沖縄戦を考えたい」としている。参加費一般2500円(前売り2000円)、高校生以下1250円(同1000円)。問い合わせは関西沖縄文庫(06・6552・6709)。
 
 
 
20日の琉球新報によれば
 
 
●6・23東京に広がれ 上江洲さん、若者向けライブ企画
 
 【東京】「わたしにとって原点の日。東京から発信したい」。南城市出身の上江洲修さん(31)が今年も新宿と阿佐谷のライブハウスから「慰霊の日」を考えるメッセージを20代、30代の若者に向けて発信する。
 コンサートは今年で5回を数える。バンド演奏で若者の熱気がはじけるライブハウスで、22日は元参院議員の大田昌秀さんとのトークを交え、また22、23日の両日ともにシンガー・ソングライターの佐渡山豊さんの演奏を通して沖縄の「慰霊の日」を考える。 
 「6・22 23慰霊の日 琉球魂’09」と銘打つ企画をした上江洲さんは、10年前に上京し新宿のライブハウス、ネイキッドロフトの店長を務める。沖縄戦の歴史や平和活動への関心は「両親の影響はもちろん、小、中学校で聞いてきた沖縄戦体験者らの平和学習から」と振り返る。
 コンサートは22日が新宿区のネイキッドロフト、23日が杉並区の阿佐谷ロフトAで。「慰霊の日を本土では知らない人が多い。わたしにとって思い入れのある日で、ライブを通して認識を広げられればと考えた。東京にいるわたしの存在メッセージです」と話す。
 2会場では10日から「沖縄戦 60年目に問い直す」をテーマにした写真展も開催中。基地問題についても「戦後から今に続く問題。プロデュースする立場から、考え続けるテーマに据えたい」と話した。2会場とも午後6時開場、7時開演。問い合わせは(電話)03(3205)1556。
 
 
 
17日の琉球新報によると
 
 
県平和祈念資料館は16日、2009年度第19回「児童・生徒の平和メッセージ展」の入賞者190人を発表した。詩部門(小学校)で比屋根憲太君=大里北小6年=の作品「平和のいのり」が最優秀賞に選ばれ、「慰霊の日」の23日、沖縄全戦没者追悼式で朗読されることも決まった。
 比屋根君は「4年生のころに見た石の前で泣く祖母は、背中が丸く、小さくなっていた。戦争には恐怖と死のイメージを持っていたけど、祖母の体験を聞くと、外側だけでは分からない、体験した人にしか分からない悲しみが60年余りも心の中にあること、生き残っている自分を責め続けている人がいることを伝えたかった」とコメントを寄せた。
 図画では、中学の部で最優秀賞になった金城由季乃さん=南星中3年=の「祈り」がポスターに採用された。
 図画、作文、詩3部門、小、中、高校併せて4072点の応募があり、過去最高となった。
 展示会は20日から7月8日まで県平和祈念資料館、7月14日から28日まで八重山平和祈念館、8月10日から14日まで県庁県民ホールで順次開かれる。各会場とも午前9時から午後5時まで、入場無料。
 そのほかの最優秀賞受賞者は次の通り。
 【小学校の部】図画 岡田慎之介(西表小3年) 作文 該当なし
 【中学の部】作文 大城美貴(渡名喜中1年) 詩 又吉まこと(仲西中2年)
 【高校の部】図画 田場彩乃(開邦高2年) 作文 該当なし 詩 仲地愛(球陽高3年)
 
<平和のいのり(全文)>
石に刻まれた家族の名に
涙を落とす祖母
なんの形見も残っていない石に
声にならない声で
石をさすり
石をだきしめる
小さな声でとても小さな声で
「本当は話したくないサー」
少し首をかしげて
空を見上げる
人さし指の大きさの大きな傷
あごと左腕に残る
戦争の傷あと
 
祖母は傷の手当てをするために
水くみに行った
防空ごうに姉を残し 母と二人で
そのあとすごい光と音が…
そのまま姉はもどらなかった
「いっしょに連れて行けばよかった」
「ごめんね ごめんね」
と何度も何度も
きたときよりも
石を強くさすり
石を強くだきしめる
ぼくはもう声を上げて泣いていた
そして祖母の背中をずっとさすった
こんな青い空に
こんなおだやかな沖縄に
戦争は似合わない
祖母のくしゃくしゃな涙も
似合わない
 
そんな祖母はもう今は歩くことが
できない
毎日毎日空を見て
きっと
生きている喜び
生き残った悲しみを感じて
いるのだろう
ぼくは車イスをおして
祖母のいのりを引きつぐ
戦争のない平和な国を
 
 
 
 

 

戦争を生き延びた人が少なくなっていくなか

 

命の尊さを伝えるバトンは

 

若い世代へと受け継がれている

 

 

沖縄では戦争体験はとても身近で

 

みんな子どもの頃から家でも学校でも聞かされて育つようだ

 

 

それが歌や踊り、芝居になり、詩がつむがれゆく沖縄は

 

永遠平和への祈りを発信する基地であることこそが似合うのだ