今日は「第3回4・25メモリアル市民の集い」に行ってきた

 

JR福知山線脱線事故の被害者とその家族や友人のみなさんによる手作りイベント

 

僕の言葉なんか差しはさむ余地はないと思うので、聴いてきた言葉をここに記します。

 

 

第3回 4・25メモリアル市民の集い

 

~語り合おう・語り継ごう・あの日のこと・これからのこと~

 

「生きる」 愛 希望 勇気・・・

 

一部 18歳の生存者 ~出会い・つながり・届けたい思い~

山下亮輔さんの講演とライブ

 自宅から大学まで1時間かけて通学していました。東西線経由同志社行き乗って。いつもは真ん中あたりの車両だったけど、その日はたまたま1両目に乗った。目の前でオーバーランしてバックしてたので大丈夫かと思ったけど、出席をとる授業に間に合いたかったし、通い始めてまだ1ヶ月足らずだったので1両目に乗りました。名神高速を過ぎた頃、ものすごく揺れだしました。どんどん揺れて左側の窓に手をついたら地面が近づいてくる。車両は左に傾いて飛んでいったので、中にいて左の窓を見ると地面が近づいてくるように見えました。気がついたら真っ暗な中。1両目が激突したのはマンションの地下駐車場。事故の後駆けつけた人たちは現場を見て1両目はどこか?と不思議に思ったそうです。7時間後に発見されるときまで、コンタクトも飛んでいって何も見えませんでした。自分のまわりは少し空間があるけどそこから先は見えません。足は正座するようなかっこうで人とか物とかで動けません。上半身は比較的動かせました。傷はなかったし苦しくはなかったです。でもまわりの人たちは「痛い」「苦しい」「助けて」と小さな声で叫び、時間が経つにつれてその声がだんだん減っていきました。そんなありえない状況が一番しんどいことでした。発見されてから救出されるまでに11時間半かかりました。衝突した車からガソリンが漏れてたので火花を散らす機械が使えず手作業になって時間がかかったのです。発見されるまでの7時間と救出されるまでの11時間とでは天と地ほどの違いがありました。発見されるまでの7時間はしんどかったです。それから救出されるまでの11時間は、ここから脱出しようという気持ちでした。

 気がつくとICUにいました。クラッシュ症候群というのになって、足に障害があり炎症を起こしてました。毎日40℃以上の高熱が出て、上半身、手や腕、首が動かせませんでした。足があるのかどうかも感じられません。見ることもできません。そのころ家族は足を切断するかどうか悩んでいたそうです。足を切ることで命を守れるということですが、担当医は「彼の生命力にかけたい」と言って両足を残してくれました。そのおかげで今こうして生きています。でもその間は高熱との闘いでした。38℃になったらシャワー浴びようとか散歩に行こうとかちょっとした楽しみを見つけるようにしてました。外に出られると、太陽ってこんなに暖かくて眩しいんだと思い、つい泣いてしまいました。病院の中では一生懸命ご飯食べて、良くなると思ってしんどくても食べるようにしました。足の筋肉が固くならないようにストレッチャーや筋トレ、リハビリを続けました。初めて立ち上がったとき、おしりが初めてベッドから離れたとき、ここ2~3ヶ月で身長が伸びたような感じがしました。支えてもらってたけど初めて立てたのです。自分の目線てこんなに高いんだと思いました。立ち上がることができたら、次は車イスに乗って一人でトイレへ。車イスは意外に難しいのです。1~2日のトレーニングでトイレへ行けるようになりました。。そしたら今度はベッドからリハビリ室へレベルアップ。両松葉杖→片松葉杖→今の杖。頑張れば頑張るほどいい結果が出ました。

 ところが、秋ごろに筋トレ中右ひざあたりに「ゴリッ」という感じがしたので病室に帰って検査してもらったところ、そこの筋肉が溶け出してて、それを取り出さないと熱が下がらないらしいのです。そこの部分にストロー状のものを挿してドロドロのどす黒い血のようなものを抜き取りました。どんなに頑張っても努力したにもかかわらず、報われないのが一番つらいことだと思い、このときも泣きました。

 それでもあきらめないで立ち直ることができたのは、いちばん重要なのは、絶対負けないこと、自分の足で学校行くんだという目標です。折れかけたときは、近くにいた看護士さんに悩みを打ち明けました。あのときいちばんのトラウマを看護士さんに打ち明け、思い出すの怖かったけど、頑張って話しました。そうすることで、こういう方法や考え方もあるよっておしえてくれました。一歩踏み出すヒントをいただいたのがいちばんありがたかったです。もうすぐ退院ってときに退院記念ライブをしたら看護士さんたち20~30人が来てくれました。夜勤の人も時間をつくって来てくれました。

 それから2ヶ月後の4月から大学に通いました。やっと実現できてうれしかったです。1年のときは、まず大学に行って90分座りつづけて授業を受けることが目標でした。2年生のときは友だちと遊んでいこうと思い、友達の家に行ったり、学校近くでアパート借りて一人暮らしはじめてたので、家に友だちを呼んだりした。普通の大学生の暮らしを楽しみました。3年生のときは、ゼミのみんなと仲間になって勉強も頑張りました。そうする中でこの事故の経験から本を書き、講演会を行なって、ライブをやって、歌詞を書いて歌ってCDもつくって販売しました。


ライブ

 一曲目は「言葉」

 思いをストレートにまっすぐ伝えたい

 

 生きていますの一言で

 手を握って笑ってくれる

 近くで誰かが呼んでいる

 次は自分が手を伸ばし

 笑ってあげよう

 

 二曲目は「君と歩く道」

 いろんな人に相談して乗り越えてきたので今度は逆に支えになりたい。

 勇気のある一歩を踏み出す助けをしたい。

 

 向こうむいて一人で行かないで

 すべてを背負い込めるほど器用じゃない

 少しでいい ここにいるから

 安心して共に歩こうこの道を

 時間はたっぷりあるから

 

 

 

二部 そして 今 順子さんは・・・

 ・命輝いて 人は愛の力で生きている

 「私いくつなの?」と尋ねる鈴木順子さんは今年34歳になります。4年前の4月25日以来記憶がないのです。あの日2両目に乗っていた順子さんは5時間後に救出されました。内臓破裂に脳挫傷。ヘリコプターで大阪市立総合医療センターへ。医師からは死の宣告。頭の中の脳が、お弁当箱にお豆腐入れてシェイクしたような状態。残酷な言葉を前に家族は絶望の淵にいました。でも、母、桃子さんは絶対に奇跡を起こしてみせると決意します。村上和雄さんの「生命のバカ力」を読むと、愛は脳を活性化するという。心の底から愛を込めて呼びかけつづけました。つとめて明るくして、病室はいつも笑顔に包まれました。そして5ヶ月目に奇跡が起こります。順子さんの口から突然言葉が出たのです。最初はため息みたいな弱いものだったけど、やがて「お母さん」と話したのです。意識がもどった瞬間でした。

 それからも壮絶な闘いはつづきました。事故のとき、口の中にガラスの破片がたくさん入ったので必死になって飲み込まないでいました。そのため、事故後は食べ物を飲み込むことがどうしてもできなくなり、自暴自棄になることもありました。小さいときから小児喘息とアトピー性皮膚炎に悩んできて、鼻で息することが難しく、息をコントロールすることで発作を鎮めていました。病室ではアトピーの痒みで皮膚を引っかくので手首をベッドに縛られ、うっ血ていました。それで11ヶ月後に病院を出て家に帰りました。姉のアツコさんも近所に引っ越し、順子さんが食べ物を飲み込むことができるようにあらゆる努力をしました。そして1週間後に2度目の奇跡が起きます。自分から口を開けて食べ始めたのです。度々見せる笑顔。家族に春の足音が聞こえました。それから急激な回復をみせて「ありがとう」と言ってくれるようになりました。

 大事故であったにもかかわらず、外傷が少なかったのは多くの人たちがクッションとなり亡くなったからです。そのことを忘れず、何かにつけ「ありがとう。がんばるね。」と言うようになりました。歩行器で歩き回れるようになり、プールでは平泳ぎで25メートル泳げます。高次脳機能障害である順子さんの言葉を母、桃子さんがノートに書いている「順ちゃん語録」。臨死体験から生還した順子さんの言葉はとても重みがあります。

 

 「こうじのうきのうしょうがい」って「こうじのう明日しょうがい」とか「明後日しょうがい」とかでええやん!

 自分の努力で生きているのではなく、何か偉大なものによって生きてる、忘れるなあ人間て

 ブランド物を身につけるのではなく、自分がブランドになればいい

 形のない大切なもの、愛情、友情、情やな

 生き方とか性格って関係ない、そばでいっしょに歩いていく人、自分ががんばって生きてるって証明してくれる人が大切

 生きていることが芸術やわ。命あることが芸術。生きて何かをすることが芸術なんやなくて、
生きたくても生きられない人がいるんやから、生きてるだけで芸術や

 思ったとおりに生きたらいいよ。やりたいことがあれば、やればいいよ。後で後悔したって遅いやん。
一回しか生きられない。いま思いどおりに生きたらいいよ。だれも責められないよ。自分を責めるだけ

 意志とはこうなりたいという気持ち、夢を持ち続ける強さ

 

 ・我が娘順子 ―JR福知山線事故からテイクオフ

母、桃子さんのお話

 「できないかもしれない、でもやってみる」という言葉があります。これはケネディが宇宙開発について語った言葉だそうです。何に向かって生きたらいいのか・・・一応手術は成功したけど、物が2つに見えてしまう順子さん。目一つ分ずれて見えるようです。娘を自立させるにはどうしたらいいか・・・。この4年間ですごく疲れました。目的がないってことは辛いことなんだなと思います。そんなとき、ちょうどオリンピックのときで、テレビでパラリンピックやってました。そうだ!順子をパラリンピックに出すんや。毎日プールに行って泳いでるし。そのときが来たらいいなって思います。半分夢物語だけど、大きな夢もって歩いています。

 

 

質問コーナー

 

順子さんのいちばんしたいこと

 「いろんな国に行ってみたい。いろんな方とお話してみたいなあと思います。」

順子さんのいま

 「幸せなことばっかりで、こんなに幸せでいいのかなって」

 

亮輔さんより

 「自分自身が一生懸命生きてる。前向きに。それを見てる人が自分も頑張ってみようかなって思ってくれるといいなって。そういうところは(順子さんと)似てると思います」


 


会場のみなさんから

 

他の生存者は

 軽症で済んだ自責の念。現場での救助活動で何もできなかったという思いを引きずっています。

 

通りがかりで救助を手伝った人

 あのときちょうど踏み切りにいて、事故現場で救出を手伝いました。あのときちゃんと人を助けてたら、もっと助けられたんじゃないかって後悔しています。毎年桜が咲くのを見ると思い出し、心療内科に通っています。眠れない夜の4年間を過ごしてきましたが、今日お二人を見て少し楽になりました。これからも前向きに生きてください。

 

JR西日本の社員

 受付で断られるんじゃないかと思いながら聞いてみると、受付の方が責任者と相談して入場させてくれました。会社でビデオを見たりしてきました。あれからずっと教育、研修をしています。でも、大きな会社なのでみんなが考えるとこまではいってません。やらされてる感じです。変わっていこうとしてはいます。でも急に変わることはありません。悪しき体質はたしかにありました。すさまじい業務管理でした。まだまだ変わろうとしてるのは事実です。今日はお二人から勇気、元気をもらいました。もっと頑張っていきたいと思います。会社を変えていくのは一人一人だから、意見を聞いていきたいです。友人である社員もご子息が事故にあったといいます。今日は直接被害者に会って本当に参考になりました。ありがとうございました。

 

 

「翼をください」みんなで歌いました。

 


最後はピアノソロ「命の名前」でした。

 

 

 

 

 

北朝鮮のミサイルが発射された

 

今のところ被害の知らせはないみたい

漁船もみんな無事とのこと

とにかくみんな無事で良かったのだ

 

これからは北朝鮮に対する制裁をどうするか

日本、アメリカは強調して国連安保理決議にもっていこうとしてるけど

中国は6カ国協議にもっていこうとしてる

 

日本の制裁内容はこれまでの制裁の再確認と

追加制裁をどうするか

 

拉致被害者家族会は今日午後に抗議集会を開いて

「拉致問題での不誠実な対応」も発動理由の一つにしてほしいと訴えている

 

 

命の名前

海の向こうにも・・・忘れない