今日は四月一日新年度

 

朝刊を開くとサントリーの広告が目に飛び込んだ

 

もう手元にないんだけど

 

経済危機に陥っているいまになるまで

 

利益ばかり追い求めたり

人を陥れたりしてきたけれど

 

もうそんなことはやめて

共に生きるために働こう

 

そんなことが書いてあったと思う

 

 

夕刊をみると

 

大阪府や宝塚市、JR西日本の

みんな逆境の中で新社会人になる道を選んだ

 

JR西日本に入社した新入社員は

「入社を決めたのは二度と事故を起こさないという決意から。

人命を預かる責任を感じながら働きたい」と決意表明。

事故を受け制定した「安全憲章」を唱和したという

 

 

ニュースをみると

 

トヨタでは

今は身の丈にあった経営をして耐えること

数年後には大きく飛躍する機会を迎えるだろう、と話す

 

ローソンでは

今入社したみなさんは得

今までの方法は通用しないんだから

どんどんチャレンジしてほしい、という

 

どこだったか忘れたけど

ダーウィンの進化論によれば

生き残るには環境の変化に適応することだという

 

 

新社会人のみんな

ウェルカム!

 

みんな共に生きていくのだ

 

 

 

というわけで今日は

自分が新社会人だった頃をちょと思い出す機会があった

 

 

アイチャンネルニュースをみると

 

62歳建設作業員の兄が51歳無職の弟を絞殺

弟は30年前から統合失調症を患ってたとか

 

これをみて

僕は改めてHKには悪いことをしたなと思い

今まで書いた手紙の中からHKに謝罪した部分を探してみた

 

2007年12月の手紙にはこう書いた 

 HKさんには1月にアメーバメッセージで謝ったことがあるけど、昨年11月に書いたブログの内容についてだけでした。昨年春から夏にかけてMさんに送った手紙で、本人が知らないところで悪口を書いてきたことについてはまだ謝罪していません。自分の過去ばかり思って、書かれる人と読む人たちへの配慮を失っていました。たいへん申し訳ございませんでした。HKさんがあったのと同じ目に、私はあわなければならないと思っています。

 

2008年4月3日投函の手紙より

もしかして、H.Kさんもこんな状況の中で頑張ってきたのかと思うと、本当にすごいと思います。個人的に好きになれないからといって、知らないことをいいことに多くの人を動員してH.Kさんを攻撃してきたことは自分のわがままであり、どんなに謝っても謝りきれるものではありません。昨年1月にH.Kさんがやってしまった自作自演についても、Mさんが私のセクハラを公に言えないが故に、やむを得ずはかったこととして、今では理解しています。

 

2008年6月2日投函の手紙より

 H.Kさんには本当に申し訳ないことをしたと本当に思っています。また、ずいぶん差別的なことを書いてきたので、多くの人に不快な思いをさせてきたことも謝りたいと思います。本当にごめんなさい。

 

理由はなんであれ

病気や症状や特定の傾向について悪くいうものではない

僕はとんでもない間違いをしでかしていたと思う

本当に申し訳ない

 

 

 

振り返ってみると

僕が統合失調症(精神分裂症)について考えるようになったのは

新社会人になってからの部長との関係においてであった

 

恩師として尊敬して真面目についていく間

女性がらみになると容赦なく職権をふるう部長を少しずつ怪しむようになり

4年後にはついに犬猿の仲となってパワハラに遭う

 

上司である部長は部下である僕に対して手段を選ばない

だから僕も必死になって自分を守らざるを得ない

 

そこで僕は部長の精神的傾向を捉えようとするが

僕にとって部長は恩師

攻撃するにはまず理解することが必要だった

 

だからまず精神分裂症って何だろう?と考え

店の本を調べてみた

その中で最も難解だけど最も読むべきと思ったのは

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著

「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」

 

この本は著者たちが

精神分裂症を肯定的にとらえて精神分析を乗り超え

現代文化総体を変革しようという野望をもって著わしたといわれているからだ

 

一応読んだけどほとんどわからない代物だ

でもところどころわかったつもりのところはある

 

分裂者はひとつの特定の極においてのみ自然と結びついているのではないから、分裂者は現行社会のコードのことばによってきびしく尋問されるのである。お前の名前は。お前のお父さんの名前は。お前のお母さんの名前は。といった具合にである。欲望する生産の遂行過程において、モロイは警察官に次のように尋問されている。「<あなたのお名前はモロイですね>と警察署長がいった。<はい、いま、思い出しました>と私がいった。<では、あなたのお母さんは>と署長がいった。私には、何のことか分りませんでした。<かの女もモロイというお名前ですか>と署長はいった。<かの女がモロイという名前ですかって>と私がいった。<そうです>と署長がいった。私は、考えこみました。<あなたのお名前はモロイですね>と署長がいった。<そうです>と私がいった。<では、あなたのお母さんも、モロイというお名前ですか>と署長がいった。私は、考えこみました。」精神分析がしていることも、この程度のことであって、それが極めて革新的であるなどということはできない。精神分析は、一方において、今日では、精神病といわれる諸現象がいかに自分の基準理論の枠を超えているかということに気づいていながら、依然としてみずからは、自分流の問題を提起しては、その基本的見地たるオイディプス三角形の基盤からその解釈を発展させ続けているのだ。

(「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」 河出書房新社 p.27)

 

 

これを読んでいながら僕はしくじった

HKを自分流の枠組みに勝手に当てはめていたのだから

 

 

でも僕は精神分析をあてにしたことはない

僕自身にエディプス・コンプレックスがなさすぎるので

エディプス・コンプレックスを一般化して使う理論がしっくりこない

 

 

 

僕が「私たち」という主語を多様する文章を書いたのは

まずは部長を理解したいからだった

 

そうしないと僕は職場にいることができないという恐怖感があったのだ

 

敬愛と憎悪のアンビヴァレントな思いが

部長の語る一人称たちを「私たち」で一括しようとしたのがはじまりだった

 

 

 

 

 

なんだか

新社会人だったころが懐かしい

 

 

ちゃんとHKのことを理解したいと思うようになってきたよ

 

 

 

 

 

では、おやすみなさい☆