う~ん

昨日の日記でみんなの意見を聞きたいと書いたけど

まだ反応がよくわからないので

今日は供述のつづきを延期しよう


今日は文藝春秋の発売日

電車の吊り広告を見ると

ムラカミさんが書いた記事の見出し

「僕はなぜエルサレムに行ったのか」


お昼に仕事が終わり今日から学校は休みなので

ヒルトンのジュンク堂で文藝春秋を買い

午後のカフェで読んだ



賞のオファーがあってから受賞するか悩み

受賞式でスピーチをし

エルサレムとテルアビブを訪れて

帰国するまで

ほぼ時系列どおりに思いを語っている


2008年11月25日

エルサレム賞を受けてもらえるかという問い合わせ


2008年12月27日

イスラエル軍によるガザ空爆はじまる


2009年1月21日

イスラエル賞の受賞が発表される

事前に送るように頼まれていた受賞スピーチを3日くらいかけて書く


2009年2月13日

イスラエルに到着


2009年2月15日

エルサレム賞を受賞

「壁と卵」のスピーチをする

エルサレムに3泊

テルアビブに1泊

町の人たちに話しかける


2009年2月18日

日本に帰国




受賞スピーチの全文を初めて読んだ

期待以上におもしろい文章だ


 小説家がうまい嘘をつくことによって、本当のように見える虚構を創り出すことによって、真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の光をあてることができるからです。真実をそのままのかたちで捉え、正確に描写することは多くの場合ほおんど不可能です。だからこそ我々は真実をおびき出して虚構の場所に移動させ、虚構のかたちに置き換えることによって、真実の尻尾をつかまえようとするのです。しかしそのためにはまず真実のありかを、自らの中に明確にしておかなくてはなりません。それがうまい嘘をつくための大事な資格になります。


 もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。


 そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?


 私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。



ムラカミさんが小説を書く理由を初めて知った思いがする

既存の教条に従ったりしない

特定の方程式にも固執しない


自分個人の魂が感じるままに

それでいて日々の変化に適応して

システムと魂の位置関係をいつでも捉えなおそうとしている


だから1月下旬に書いたスピーチにも固執していない

3月10日本日読むことができるこの記事にはこんなことも書いてある



 ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義的と糾弾されて排除されていった。その結果、学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。


 僕らの世代は60前後になりました。そろそろ定年退職する年齢だし、会社を離れ、ひとりになって考え直すにはいい時期じゃないかと思います。転換期というか、もう一度それぞれのかたちで理想主義みたいなものを取り戻す道を模索するべきなのかもしれません。僕自身も、漠然とではあるけれど、まわりと見渡してそういうことを感じています。我々にはそういう責務があるのではないかと。




スピーチでは

真実を自分の中で捉えておくことが、

うまい嘘をつくための資格だと述べている


今日の記事では

戦争反対原理主義?

シオニズム

イスラム原理主義

平和主義的原理主義?

オウム真理教の原理主義

戦争裁判の原理主義?

学生運動の原理主義

そして

ネット空間にはびこる正論原理主義

これらを今回の「システム/壁」として語りなおしている


壁と卵

システムと魂

の位置関係がときおり変化していることに気づかないで真実を見失い

自分と特定の他者との位置関係にだけ固執してしまうのを

原理主義と呼べるのかもしれない



これについては僕は反省しつづけている

でも責任の所在ははっきりさせざるを得なくなっている

そうしないと僕の人生そのものがつぶされそうだから・・・

相手のリスクよりも僕にかけられるリスクの方が大きくなった

つまり

壁から卵に転じた僕はシステムから身を守らざるを得ない



さらに最後には

かつて理想をあっさり捨てて経済活動に専念してきた世代の責任感から

改めて理想を模索する必要について考えはじめている



小説家として未来に向かって

理想を示そうとし始めているのか・・・


リスクを十二分に承知の上で

何かを変える力になろうとしているのか・・・




ムラカミさんにはかつて

自分や周囲の人に降りかかる火の粉は熱心に払うけど

他人に降りかかる火の粉には無関心じゃないか?

そんな批判が左翼サイドからあったのを思い出すけど


決まった鋳型で世界を捉えるのではなく

自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の言葉で話す

そういうスタイルを貫いている一<個>の魂なんだと思う





かつてエルサレム賞を受賞した人に

スーザン・ソンダクもいると書いてある


新しい時代の新しいラディカル

そういうものを生み出す可能性を

勝手に少し感じとることができた