筑紫哲也さんが亡くなられた
若い頃はとても影響された
多事争論は毎晩聞いて眠るのが日課だった
あの人の語り口は
荒ぶる怒りを内に秘めながら冷静に
まるで自己分析をするかのように
現情勢や現代史を分析していたように思う
自分と他者、内と外、今と過去を分け隔てない
その優れた洞察力には
極めて理性的でありながら感動すら覚えることがあった
たくさんの言葉を本当にありがとうございました
ご冥福をお祈りします
たとえば
人のしたことを非難する前に
自分もしたことがあると思い出し
それらを考え合わせてから
総合的に観て問題の立て方を提案する
ジャーナリズムのスタイルがこんな風だったら
多くの人が尊敬し信用できるだろうし
個人の生き方にも健全に影響するだろう
もしも
誰にも知られることのない自分の心の内が
まるで盗聴でもされているかのように
人に知られているかのごとく
人間関係を誠実に築くことができたら
すごいと思う
こんなことに憧れるのは
変だろうか?
とにかく
もしそんなことができるなら
その経験を通じて人の見方が
少しずつ変わっていくだろう
自分の心の内を
人の心に投影することで
相手の心の内を想像することができるのだから
自分が人の心を想像するとき
第三者の心と比較するときもあるけど
やっぱり
基本になるのは自分自身の心だ
と思う
そうするうちに
人の心の内が
その人の表す言動と
いくらか/ずいぶん離れている
という事実にだんだん気づいていく
それはあまりおもしろいことじゃないかもしれないし
どちらかといえば残念なこともよくあるだろう
でもそれは自分と同じこと
もともと自分の心の内を相手に投影して
勝手に想像してるんだから
実は・・・
自分も同じことしてる
或いは
自分もかつては同じことしてた
多くの場合こうなる
それに
自分の読みがずいぶん的外れなこともある
たとえば
そんなのは自己保身のためのウソだと決めつけたくなっても
実は・・・
相手はまるっきりバカ正直に述べてるだけってこともある
もともと自分の心の内を相手に投影して
人の心の内を勝手に想像してるんだから
要するにこの場合
自分がつきそうなウソは人もつく
という勝手な思い込み
ってことは逆に
まるで他人に自分の心の内がすべて監視されているかのように
バカ正直になれたなら
自分が正直になれることは人も正直になれる
と思い込むかもしれない
いずれにしろこのような場合
間違いから学んで経験値を積むことになったりする
世の中には実に様々な人がいる
だから生きてておもしろい
そんなことから
ただ言ってることとしてることが離れてるだけじゃなくて
どんなふうに違ってるか
その人が本当に言いたいことはこうなんじゃないかって
人を排除するんじゃなくて
共に生きる方向へと前向きに考える
ようにもなり得る
だからこそ
世界平和だなんて大きなものを大上段に構えるばかりでいるよりかは
等身大の正義から身につけていくのがいい
等身大の正義というのは
多くの人々の共感を得やすい
それ故
例えば映画にとっては集客力を見込める
しかし
ひとたびパターン化したストーリーは
背景に何の希望も持たせることなく
ただ興行的な成功だけのために
「等身大の正義」をキャッチに宣伝してしまう
本来
等身大の正義というのは
平和を達成するための戦略に基づくはず
そうでなかったら
わざわざ「等身大の」と形容して
大きさを指定したりしない
でもこのことは
すべての人に等しくわかるというわけにはいかない
ここが難しいところだけど
だからこそ
みんなで同じ感動に共鳴することが
たしかにまず大事
自分にはわかるけど相手はわかってない
なんていう「上から目線」じゃなくて
等身大の正義だからといって
特定の「敵」を排除し続けるんじゃなくて
人がわるいことをしたからといって
自分がしたことを忘れてばかりでいいわけじゃなくて
いまよりもっと平和な
いまよりもっとたくさんの人が幸せをかみしめられるような
進んでいく方向を指し示す羅針盤みたいな
そういうのを
希望って呼ぶんじゃないかな
若い頃はとても影響された
多事争論は毎晩聞いて眠るのが日課だった
あの人の語り口は
荒ぶる怒りを内に秘めながら冷静に
まるで自己分析をするかのように
現情勢や現代史を分析していたように思う
自分と他者、内と外、今と過去を分け隔てない
その優れた洞察力には
極めて理性的でありながら感動すら覚えることがあった
たくさんの言葉を本当にありがとうございました
ご冥福をお祈りします
たとえば
人のしたことを非難する前に
自分もしたことがあると思い出し
それらを考え合わせてから
総合的に観て問題の立て方を提案する
ジャーナリズムのスタイルがこんな風だったら
多くの人が尊敬し信用できるだろうし
個人の生き方にも健全に影響するだろう
もしも
誰にも知られることのない自分の心の内が
まるで盗聴でもされているかのように
人に知られているかのごとく
人間関係を誠実に築くことができたら
すごいと思う
こんなことに憧れるのは
変だろうか?
とにかく
もしそんなことができるなら
その経験を通じて人の見方が
少しずつ変わっていくだろう
自分の心の内を
人の心に投影することで
相手の心の内を想像することができるのだから
自分が人の心を想像するとき
第三者の心と比較するときもあるけど
やっぱり
基本になるのは自分自身の心だ
と思う
そうするうちに
人の心の内が
その人の表す言動と
いくらか/ずいぶん離れている
という事実にだんだん気づいていく
それはあまりおもしろいことじゃないかもしれないし
どちらかといえば残念なこともよくあるだろう
でもそれは自分と同じこと
もともと自分の心の内を相手に投影して
勝手に想像してるんだから
実は・・・
自分も同じことしてる
或いは
自分もかつては同じことしてた
多くの場合こうなる
それに
自分の読みがずいぶん的外れなこともある
たとえば
そんなのは自己保身のためのウソだと決めつけたくなっても
実は・・・
相手はまるっきりバカ正直に述べてるだけってこともある
もともと自分の心の内を相手に投影して
人の心の内を勝手に想像してるんだから
要するにこの場合
自分がつきそうなウソは人もつく
という勝手な思い込み
ってことは逆に
まるで他人に自分の心の内がすべて監視されているかのように
バカ正直になれたなら
自分が正直になれることは人も正直になれる
と思い込むかもしれない
いずれにしろこのような場合
間違いから学んで経験値を積むことになったりする
世の中には実に様々な人がいる
だから生きてておもしろい
そんなことから
ただ言ってることとしてることが離れてるだけじゃなくて
どんなふうに違ってるか
その人が本当に言いたいことはこうなんじゃないかって
人を排除するんじゃなくて
共に生きる方向へと前向きに考える
ようにもなり得る
だからこそ
世界平和だなんて大きなものを大上段に構えるばかりでいるよりかは
等身大の正義から身につけていくのがいい
等身大の正義というのは
多くの人々の共感を得やすい
それ故
例えば映画にとっては集客力を見込める
しかし
ひとたびパターン化したストーリーは
背景に何の希望も持たせることなく
ただ興行的な成功だけのために
「等身大の正義」をキャッチに宣伝してしまう
本来
等身大の正義というのは
平和を達成するための戦略に基づくはず
そうでなかったら
わざわざ「等身大の」と形容して
大きさを指定したりしない
でもこのことは
すべての人に等しくわかるというわけにはいかない
ここが難しいところだけど
だからこそ
みんなで同じ感動に共鳴することが
たしかにまず大事
自分にはわかるけど相手はわかってない
なんていう「上から目線」じゃなくて
等身大の正義だからといって
特定の「敵」を排除し続けるんじゃなくて
人がわるいことをしたからといって
自分がしたことを忘れてばかりでいいわけじゃなくて
いまよりもっと平和な
いまよりもっとたくさんの人が幸せをかみしめられるような
進んでいく方向を指し示す羅針盤みたいな
そういうのを
希望って呼ぶんじゃないかな