広島は6日、63回目の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園で開かれた「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)には、被爆者や遺族、福田康夫首相ら約4万5千人が参列。秋葉忠利広島市長は平和宣言で、2020年までの核兵器廃絶を目指す平和市長会議の「ヒロシマ・ナガサキ議定書」の実現に向け、「必要なのは強い意志と行動力」と強調した。

 式典には昨年より13カ国多い過去最多の55カ国の代表が参列。中国からも初めて領事が出席した。原爆が投下された午前8時15分には「平和の鐘」が打ち鳴らされ、参列者全員が一分間の黙とうをささげた。慰霊碑にはこの1年間に死亡、または死亡が確認された5302人の名簿が奉納され、広島の原爆死没者は25万8310人になった。
 秋葉市長は平和宣言で原爆による心身への深刻な影響に触れ、「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」と訴えた。福田首相はあいさつで「日本は『平和協力国家』として国際社会において責任ある役割を果たしていかなくてはならない。非核三原則を堅持し、核兵器の廃絶に向けて国際社会の先頭に立っていくことを誓う」と述べた。

 午前8時15分。雲一つない快晴の下、「平和の鐘」が鳴り響いた。その音を聞きながら広島県廿日市市の畑口実さん(62)はそっと手を合わせ、写真でしか見たことのない父、二郎さん(当時31)が亡くなった当時を思い浮かべた。
 畑口さんは前の原爆資料官長。2006年に定年退職し、今春から「語り部」として活動を始めた。生まれたのは終戦翌年の1946年3月。広島鉄道局職員だった二郎さんは原爆で死亡。畑口さんを妊娠中だった母のチエノさん(90)は夫を捜して原爆投下後の広島に入り被爆した。
 40代まで自分が「被爆者」という意識はなかった。後遺症と思われる症状もなかった。転機は1997年。広島市役所の人事畑から館長に就任、いやおうなく「原爆と正面から向き合うようになった」。9年の在任中、被爆体験の風化を防ごうと走り回った。
 そして今、広島を訪れた小中学生らに語りかける。顔も見る間もなく亡くなった父のこと、館長として知り合った多くの被爆者の思い――。「突然命を奪われた父たちの悔しさを、『最後の世代』である私たちが後世に伝えないと」。畑口さんは「毎年、目に見えて減っている」という被爆者席を見つめ、誓った。
 広島市によると、この日式典に出席した被爆者や遺族らは約4万5千人。この中に大阪府の遺族代表として参列した大阪市都島区の清水康弘さん(67)の姿もあった。
 一家で被爆、父の新二さん(同44)と兄の政登さん(同12)を失った。戦後に広島を離れたが、毎年この日の朝は、広島を向いて黙とうした。
 今年、初めて新二さんの遺影を国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録した。母の米子さん(同89)が2005年に亡くなり、三回忌を終えたことが契機となった。二人の写真を手に広島に入り、公園内の祈念館で「これからはずっと夫婦一緒だよ」と報告した。式典後、「ようやく一区切りがついた」と安堵した表情を見せ、原爆ドームの上空を見上げた。


 63回目のこの日、青空から私たちをそっと見つめている死者たちは、今の世の中をどう見ているだろう?原爆によって人生を大きく変えられた人たちの「原爆の日」が今年も訪れた。犠牲になった人たちが語り、遺す素朴なメッセージは、庶民の目線、強力な兵器で攻撃される側の目線に思いを馳せる時間を与えてくれる。
 でも、世界の動きはどうだろう?核不拡散を掲げて北朝鮮やイランの核開発を査察する一方、P5の米中ロ英仏に加えてイスラエル、インド、パキスタンが核兵器を保有している。日本は核兵器をもっていないが多くの原子力発電所を有し、再処理により大量のプルトニウムを保有。核兵器をつくるのに1年とかからないという。そして、今世界は空前の原油高にみまわれ、欧米で下火だった原子力発電がまた盛んになりつつある。
 東西冷戦の時代には米ソだけで世界人類が何度も死滅してしまうほど大量の核兵器があった。敵から攻撃されたら報復しなければならない・・・報復の確実性をどんどん上塗りしていくように核兵器の数は増えていった。自分たちがやられて滅んでしまうくらいなら、敵もろとも世界中を巻き込んで全部お終いにしてしまえ!といわんばかりの狂気の戦略が、世界トップクラスの英知を集めて冷静に遂行されていたと思うとぞっとする。
 このような危険と狂気は現在も少し構図を違えて存在する。先に発展した国、先に核保有した国は、不毛な核競争をなくす方向に先に動くべきだ。みんなが生きられる方向へと導いたり、協力したりすることこそが生き残る条件となるような道を模索しようと、死者たちに誓いたい。