日曜日の新聞って、時事よりも特集記事とかの方が面白かったりする。筆者としては書評が面白いと思う。たくさん本が紹介されて、とても読めなくて、書評読むだけでごちそうさまって感じ。
 んなわけで、せっかくだから、書評を読んだ感想でも書いとくか。

 平野啓一郎著 「決壊 上・下」(新潮社 各1,800円)
 山城むつみさんという文芸評論家が「いじめ、インターネット、うつ、自爆テロなど、現代の症候にミステリー形式でメスを入れた野心作」と評している。
 「『悪魔』を名乗る犯人は、社会システムのルールから『離脱』して殺人へ走れと号令する自分の犯行声明がインターネットやマスコミに過剰に言及されることを逆用して日本のみならず海外にも無差別殺人を誘発する。『悪魔』の理論が人々を殺人へと駆り立てるという運びは一見、安易だが、その力点は、同時多発殺人という症状そのものにはなく、現代人の〈心〉は、〈幸福〉を求めてひたすら走ることを強いるこの社会システムの中で自殺に踏み切る一歩手前まで空洞化しており、『悪魔』の稚拙な一押しでさえ『決壊』して殺人へと駆け出す臨界状態にあるという診断にあるようだ。」
 「『わがこころのよくてころさぬにはあらず、また害せじと思ふとも百人千人をころすこともあるべし』という『歎異抄』の言葉がある。千人を殺せと言われて千人を殺す人間が出現しうるような〈心〉の臨界状態よりも恐ろしいのは、殺そう・殺すまいという意志以前にその〈心〉と千人との《あいだ》に生起して、殺す・殺さないを決している何か別の物なのではないか。」

 以上が書評からの抜粋。

 〈幸福〉に向かって走り出したことが、時として、自殺あるいは自殺に等しい行為へ「決壊」してしまう・・・ちょっと待てよ。千人殺されてるか?よくわからない。殺されたに等しい出来事を象徴してるってこと?
 無差別殺人が起きたときにテレビや新聞、雑誌で「心の闇」が語られるのはもうここ10年以上定番だけど、最近は「空洞化」も流行りだしており、心理学や精神医学の専門家までもが個々の分析をそっちのけに予めそれを前提にして仕事をこなしていたりする。世の中の流れに大きく影響する出来事について分析する責任を、作家はまったく負わないという慣例について、とやかくいってもしょうがないか。面白いものを書きたいだけだろうから。ならば、もっと面白くする方向で。千人が殺されたに等しい被害を受けたと主張することについては、このまま放置プレイななの?
 「臨界状態」というのはよくわかる。筆者自身10年以上サラリーマンをやってきたから、世の多くの人々がストレスをため込んでいてある日「決壊」してしまいかねない状態にあることは身をもって経験している。かなり無理をして、自分らしくない生き方をしないと〈幸福〉になれないみたいなところまで思い込まきゃならなくなってきてる。この状況は以前からの基調だといえる。本当に世の中のことを考えるんなら、基調を忘れちゃいけない。1000人の利害で1000000人を殺さないように。
 筆者に関心があるのは、殺されたように感じる千人と、〈幸福〉のひな形に何の疑いもなく前進していられる千人との相関関係だ。自分らしいと感じる〈幸福〉のひな形は、他人にとっては自分らしくないかもしれないから。たとえば、たとえ「決壊」になるにしても本音を語ることを使命に感じる個性だってあるかもしれないのだから。


 ミシェル・ド・セルトー著 「ルーダンの憑依」(みすず書房 6,500円)
 現在は明治大学教授の高山宏さんによる書評。
 「17世紀初め、フランスの地方都市ルーダンに発生した悪魔憑き事件を、歴史学そのものの再考を迫るアナール派・新歴史学的手法によって描き出した噂の名作である。1970年刊行。当時、象徴人類学から歴史人類学へと目を転じつつあった山口昌男氏によるいち早い紹介で広く知られながら、噂だけで、こうして読めるのに40年かかった。」
 これだけでなんだか面白そう。そのうえ、「チーズとうじ虫」や「薔薇の名前」を彷彿とさせるおもしろさと評している。
 「何が歴史で何が虚構か。『ヒストリー』という語が同時に『物語』をも意味することの面白さと厄介とを、こうした新しい歴史学は追究する。歴史は事実を、小説は虚構を扱うなどというが、『ファクト(事実)』と『フィクション(虚構)』は元々同じ言葉だったのが、まさしくルーダン憑依事件(1632-40)と同じ頃に分化・二極化している。
 それは憑依を意味する『ポゼッション』が『所有』という意味に『近代化』していくタイミングでもあったわけだ。」
「地方に憑依する魔が実は中央政権の所有の欲望だったことをあばくにこの語以上に絶妙なものはない。」

 野暮は言うまい。
 筆者はこれからも地方の庶民として暮らそう。
 Σ(^。^)それしかできへんて