最近筆者は小さな治療院に勤め始めた。院長は御年80歳。昭和3年生まれ。満州の安東という街で生まれ育った。終戦がもう1年遅かったら、まちがいなく関東軍に徴収されてたという。
今年になって、院長と同郷の方がある小冊子をつくった。戦争末期の満州からシベリア抑留を経て本土に復員するまでの証言集みたいなもので「敗戦悲話」と題されている。
編集した人は復員後、務めていた三井鉱山(株)の三池製錬所のことを「色々な戦場で戦ってきた戦争体験者の集まりである職場」と自ら記し、証言を集めてこられた。この冊子は、「シベリア・タイセット地区 抑留の思い出」と「磨刀石の戦い・鎮江山は遙かなり 拉古(らこ)」の2部構成になっている。
「シベリア・タイセット地区 抑留の思い出」はソビエト兵の「ダモイ(帰国)」の言葉に騙されて、本土とは逆方向の遙か遠く、シベリア・タイセットで5年間抑留され、零下30~45度という過酷な環境で、1日に飯盒の蓋一杯のスープだけで鉄道敷設の重労働に5年間従事させられたという話。とにかく、寝ても覚めても空腹にさいなまれるので、何とかして食べることに必死になっていたという。そんな状態を思い出しながら紡がれる一つ一つの言葉には、はかり知れぬ重みがある。この「思い出」を記した人は関東軍石頭陸軍予備士官学校の出身者。
そして、この予備士官学校は次章の「磨刀石の戦い」にも登場する。一方で「石頭予備仕官学校生在籍者3,000名を2つの部隊に分けられ、その一つが荒木部隊であり、今一つが小松校長部隊であった。終戦を知ったのは8月16日だった。」との証言を得ている。「昭和20年8月11日 荒木護夫部隊に編成された猪股中隊は雨が降りしきる中を汽車に乗り磨刀石駅へ、そこでソ連戦車と激戦となり、猪股中隊は全員戦死と小松大佐部隊に報告を受ける。」
米艦艇に対する戦闘機や潜行艇による特殊攻撃は有名だが、旧満州においてもソ連戦車に対する肉迫攻撃があったことはあまり知られていない。
この章の筆者はこのとき、ソ連戦車を待ち伏せする砲兵隊へ握り飯を届けに行く任務についていた。そこで、激烈な戦闘を目撃する。前方の傾斜では地中に掘った無数の蛸壺がある。肉迫攻撃手がでアンパン(特殊吸着地雷)や黄色火薬を持って入っているのだ。
「『あっ!上に乗った』走っている戦車に岩の上から一人の兵が飛び降りたのだ。砲塔がグルグル廻り、その兵は振り落とされた。落ちた兵は動かない。戦車は動く。轢死したのだろうか。『起き上がれ、起き上がれ』目を射る様な閃光が走った途端、赤い火柱が吹き上がった。
『やったあ!』又叫び声が近くで上がる。
一台の戦車毎に数名の肉攻班が取り巻いて、これでもかこれでもかとぶつかって行く様子が手に取るように見える。
そうではない、これは実戦なのだと幾ら打ち消しても演習を見ているような錯覚にとらわれる。これが演習ならどんなによかったろう。
飛びかかる度に確実に日本兵の命が消えていきつつあるのだ。あの白煙の一つ一つの中に『義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ』と脳の襞の隅々まで軍人精神を叩き込まれた若い魂が祖国の未来を信じながら完爾と微笑しているのだ。『俺は使命を果たした、あとは頼んだぞ』と。」
まったく比べものにならない戦力差を前に、怯むことなく果敢に立ち向かう肉迫攻撃手たち・・・
私たちが今こうして生きていられるのはこの人たちのお陰なのだと思う。
生き残って証言される人たちは、散っていった肉攻手たちの偉業を讃える一方で、日本をこの無謀な戦争へと向かわせた参謀への批判を言葉の端々で展開している。これを読む筆者としては、これをどう受け止めようか・・・今年迎える8月15日を前にまた改めて思いをめぐらせたい。
今年になって、院長と同郷の方がある小冊子をつくった。戦争末期の満州からシベリア抑留を経て本土に復員するまでの証言集みたいなもので「敗戦悲話」と題されている。
編集した人は復員後、務めていた三井鉱山(株)の三池製錬所のことを「色々な戦場で戦ってきた戦争体験者の集まりである職場」と自ら記し、証言を集めてこられた。この冊子は、「シベリア・タイセット地区 抑留の思い出」と「磨刀石の戦い・鎮江山は遙かなり 拉古(らこ)」の2部構成になっている。
「シベリア・タイセット地区 抑留の思い出」はソビエト兵の「ダモイ(帰国)」の言葉に騙されて、本土とは逆方向の遙か遠く、シベリア・タイセットで5年間抑留され、零下30~45度という過酷な環境で、1日に飯盒の蓋一杯のスープだけで鉄道敷設の重労働に5年間従事させられたという話。とにかく、寝ても覚めても空腹にさいなまれるので、何とかして食べることに必死になっていたという。そんな状態を思い出しながら紡がれる一つ一つの言葉には、はかり知れぬ重みがある。この「思い出」を記した人は関東軍石頭陸軍予備士官学校の出身者。
そして、この予備士官学校は次章の「磨刀石の戦い」にも登場する。一方で「石頭予備仕官学校生在籍者3,000名を2つの部隊に分けられ、その一つが荒木部隊であり、今一つが小松校長部隊であった。終戦を知ったのは8月16日だった。」との証言を得ている。「昭和20年8月11日 荒木護夫部隊に編成された猪股中隊は雨が降りしきる中を汽車に乗り磨刀石駅へ、そこでソ連戦車と激戦となり、猪股中隊は全員戦死と小松大佐部隊に報告を受ける。」
米艦艇に対する戦闘機や潜行艇による特殊攻撃は有名だが、旧満州においてもソ連戦車に対する肉迫攻撃があったことはあまり知られていない。
この章の筆者はこのとき、ソ連戦車を待ち伏せする砲兵隊へ握り飯を届けに行く任務についていた。そこで、激烈な戦闘を目撃する。前方の傾斜では地中に掘った無数の蛸壺がある。肉迫攻撃手がでアンパン(特殊吸着地雷)や黄色火薬を持って入っているのだ。
「『あっ!上に乗った』走っている戦車に岩の上から一人の兵が飛び降りたのだ。砲塔がグルグル廻り、その兵は振り落とされた。落ちた兵は動かない。戦車は動く。轢死したのだろうか。『起き上がれ、起き上がれ』目を射る様な閃光が走った途端、赤い火柱が吹き上がった。
『やったあ!』又叫び声が近くで上がる。
一台の戦車毎に数名の肉攻班が取り巻いて、これでもかこれでもかとぶつかって行く様子が手に取るように見える。
そうではない、これは実戦なのだと幾ら打ち消しても演習を見ているような錯覚にとらわれる。これが演習ならどんなによかったろう。
飛びかかる度に確実に日本兵の命が消えていきつつあるのだ。あの白煙の一つ一つの中に『義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ』と脳の襞の隅々まで軍人精神を叩き込まれた若い魂が祖国の未来を信じながら完爾と微笑しているのだ。『俺は使命を果たした、あとは頼んだぞ』と。」
まったく比べものにならない戦力差を前に、怯むことなく果敢に立ち向かう肉迫攻撃手たち・・・
私たちが今こうして生きていられるのはこの人たちのお陰なのだと思う。
生き残って証言される人たちは、散っていった肉攻手たちの偉業を讃える一方で、日本をこの無謀な戦争へと向かわせた参謀への批判を言葉の端々で展開している。これを読む筆者としては、これをどう受け止めようか・・・今年迎える8月15日を前にまた改めて思いをめぐらせたい。