『ファン』であるということ。~いったいその気持ちはどこから?~ | K.by K.~トラッカーセラピストのあんじぇらすコール~

『ファン』であるということ。~いったいその気持ちはどこから?~


最近、考えていること。


なかなかブログの更新が出来ないのは、本当に仕事で走りまくっているから。

書きたいことはたくさんある。

でも、かろうじて走ることの出来る寝る時間を確保するのが精一杯。

今日も久々の更新なんだけど、本当はこんな事してる場合じゃない。
先にやらなきゃいけない事もたくさんある。


でも、それでもあえて。

これは私自身への戒めも兼ねるから。
その為の、忘れないための覚え書き。


ヤマトが今の時代に合わせて『宇宙戦艦ヤマト2199』という作品にリメイクされて、二年が経過。

イベント上映含めたテレビシリーズは完結して、今は二つの局で再放送されている中、晩秋に向けた劇場作品が制作されている。


今までの間、私はヤマトが大好きな仲間と共にイベントを追いかけ続けて、日本中のあちこちに足を運んだ。


ヤマトという作品は今年が40周年。
アクエリアスの海に沈んで以後、しばらく沈黙の冬の時代があったのだけど、それでも私達ファンは待ち続けていた。
ずっと。

もう飛ばないのかな。
でも制作の話がちらほら聞こえてくるし。

そんな中でようやく姿を再び現したヤマト。

復活篇、

実写版、

そして2199。


復活篇は劇場公開時はとても成功とは言えない興業成績で、
それなのにDVDの売上は異例とも言える大ヒット。

実写版は主演がキムタク、すんごい力の入った大がかりな宣伝で、映画の興業成績は成功と言えるけど、映像ソフトの売上はそれほどでもなかったらしい。


再びヤマトが飛ぶのを望むファンと、

もういい加減にそのまま眠らせてやれよ、というファンと。


蓋を開けてみるまでわからない、本当に喜び迎えてくれるファンはどのくらいいるのか、新しいヤマトは受け入れてもらえるのか。

そんな中、情熱を傾けてあれほどのクオリティの作品をつくり続けてくださった監督スタッフの方々には本当に感謝してもし尽くせない。

旧作当時、何一つヤマトイベントに参加出来なかった上に、まともなグッズすら買えなかった子供時代の私が、今はこうして好きなだけ追いかけ続ける事が出来るのだから。


そんな深い想いの中で、

再び飛ぶヤマトを追いかけ、

昔と違って、今は様々な形で私達ファンの声を届けることが出来る。

こちらに意識的に届けようという気持ちがなくても、ネット上に何かしらの声を上げれば、場合によっては製作側が検索でその声にたどり着いてしまう場合もある。

公式スタッフによるツイッターやブログに、個人として直接声を届ける事も出来る、今はそんな時代。


さんざん待ち続けて、

ずっと想い続けて、

一人一人、それぞれに「俺ヤマト」の世界があるのは仕方ないこと。


俺の、私の好きなヤマトは“コレジャナイ”


再び飛んだヤマトが受け入れられない人がいるのも、それもしょうがないかなと思う。

でも幸いなことに、私はそんな気持ちをあまり感じる事なくヤマトを受け止め続けた。


いや、ちょっと違うか。

復活篇は、松本キャラを払拭された事に激しい違和感を覚えたけど、じきに慣れた。
しかし音楽とSE、耳の拒絶反応はどうしても避けられなかった。

それを多少の不満はありながらも全面的に受け入れる事が出来たのは、DC版の存在があったからだ。


そして実写版。

こちらは「キムタク古代くん」が全く受け入れられず、ハナから観る気ゼロだったのだが、幸いなことに私の周りのヤマト友達が実写版に肯定的な人が多く、

その意見を聞いてるうちに拒絶感が取り払われて、肯定的に観ることが出来た。


2199に関しては、
そりゃあもちろん復活篇・実写版同様、全く不満が無いとは言わない。
でも基本は、全面的に肯定派の意識で応援し続けている。


でもそうやってこの二年間、仲間と共に熱心に応援し続けていると、いろいろな事がある。

劇場限定公開や、様々なイベント。

以前は全く知らない同士だった人達と顔を合わせるうちに、すっかり打ち解けたヤマト友達となったり。


かなりの確率でイベントに出没してるのだから、

ファン同士だってこうしてお互いに顔を覚えて親しくなったのだから、

おそらくは公式(制作・製作)スタッフの方々にも顔を覚えてもらっているだろう。
それは私に限ることなく。



ネットで発信している以上、
誰が見てるかわからない、見られていてもおかしくない、今の時代。


自分の語る言葉に責任を持つ。持たなければならない。
最近つくづく思い知らされる。


ヤマトを追いかけている上で、私の望みは『ファンとして真剣に応援していきたい』ということ。


もちろん不満だって感じる事はあるし、こうして欲しい、こうであって欲しいという望みだってある。

しかしひとつの作品なのだから、作品としてどうつくられるのかは、クリエイターに委ねていくしかない。

好きだから、私の好きなヤマトはこうであって欲しいから。
自分の欲求をひたすらぶつけて、それが満たされなくて、作品から離れていくのも一つの選択。

でもヤマトという世界観の中で新しい物語にドキドキする楽しさはあって、
今の私は、それが私の中の「俺ヤマト」的なエゴより上回る。


しかし、
時々プロモーションのあり方にストレスを感じるのは否定できない。

興業作品として、どうしてもお金が絡むのだから仕方ないのだけど、

片寄った商品展開をされたりすると、私達の声は受け入れてもらえないんだなぁと悲しくなる。


あるいは、


ツイッター上で制作現場のスタッフの方と言葉を交わせたり、

もしくはイベント会場で、直にスタッフの方々と言葉を交わせる事だってある。

ことに私は、個人的には考えられないような嬉しかった事も幾度かあって、それはやはり、直接足を運んで労力とお金と時間をかけただけの事はあった、ファンとして『ご褒美』の一つであったと受け止めている。


そんな中で、


ふと気がつくと、


本来なら、どんな事があってもヤマトを応援していきたいという純粋な思いがいつの間にかズレていき、


ヤマトのための意見具申と言いながら、私の「こうしてほしい」エゴを感情的にぶつけていくだけに成り果てたり、

ファンとして公式スタッフの方々に覚えてもらえるのは嬉しいけど、応援のつもりが自分のエゴを満たされたいがためのファン活動に成り下がったり。


自分は、ひたすらに愛しているこの作品を応援し支えていきたいのか、

それとも自分の「こうであって欲しい」欲求を満たしたいがために、ファン活動を続けているのか。


与えたいのか。


与えられたい、

いや、はたまた奪いたいのか。



個人的に、

自分の発した言葉が狭いひとりよがりの世界の中ではなく、いつの間にか考えていた以上に広がった世界に響いていた事に愕然とし、

しかもそれを思いもよらない方から諭されて、自分は何と傲慢だったのかと思い知り涙を流すこともあった。

気付かされるきっかけを与えて頂いたこのご縁に深い感謝を感じると共に、
改めて身の引き締まる思いがした。


今でも、そして未だに、
感情的に先走ることがある。

己の愚かさ未熟さを自覚し、そこに気付いて軌道修正していく事は大切なこと。


そして思う。


今の私の、この気持ちはどこから?

純粋な気持ちから?

自分が満たされたいだけのエゴから?


これは人生を生きる上でどの場面にも言えること。

自分の真ん中から、ハートの中心から発しているものなのかどうか。



ヤマトの40周年はまだまだこれから。


新作に向けて、

純粋な気持ちとエゴ寄りの気持ちとに揺れながらも、

それでもひたむきに応援し続けていくファンの一人でありたい。


一番心の綺麗な、真ん中のところにある気持ちを大切にあたためていきながら。